マルコの福音書10章(Mark10)(#8038)  マルコの福音書10章をお開き下さい。イエスは、ご自分の御姿が変わった山からそのまま来られているようです。その山では、モーセとエリヤが現われ、エルサレムでこの方が死なれることを話していました。変貌の山をお離れになると、イエスは、イスラエルの国の端から端までの旅を始められました。イエスは、この国の北端のピリピ・カイザリヤの地域におられましたが、ガリラヤの北部を通ってカペナウムに戻り、カペナウムにはただ立ち寄られただけでした。したがって、イエスはカペナウムを去って、そこからは、10章の話につながります。「イエスは、そこを立って、(10:1)」「そこ」とは、カペナウムのことです。「ユダヤの辺境と(訳者注:「辺境」は、欽定訳の“coasts”の訳)」これは、ユダヤ地方の境ということです。「ヨルダンの向こうに行かれた。(10:1)」つまり、ユダヤ地方を通って下っておられますが、ヨルダン川の向こう側におられます。ユダヤの管轄をやや越えたところです。パリサイ人や律法学者は、ヨルダン川の手前の方にいます。「すると、群衆がまたみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。(10:1)」イエスは、いつも父の恵みと栄光を教えておられました。いつも父のすばらしさを人々に教えられていました。人がいれば、教えたり、伝えたりされました。  「すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスを試そうとしたのである。(10:2)」誘導尋問的な質問です。ひっかけ質問です。本当は答えをほしいわけではありません。答えを求めているのではないのです。論争をしかけるためでした。誠実な質問と、不誠実な質問があります。質問のように見せかけますが、答えが欲しいと思っているのではなく、絶えず議論をしたいと思っていたのでした。これは、議論を仕掛けるための質問のひとつでした。イエスがモーセの律法に反することを言わせるように仕向けたのです。モーセの律法には、「人が妻をめとったとき、妻に何か恥ずべきことを発見した場合は、夫は離婚状を書いてその女の手に渡すことができる。(申命24:1参照)」とあるからです。さて、彼らは長年に渡って、「妻に何か恥ずべきことを発見した場合」という言葉から、二つ明確に区別できる解釈をあみだしました。姦淫の罪を犯した場合に離婚状を書くことができるという、非常に制限された意味でこれを解釈した人たちがいました。しかし、また別のラビの学派は、「妻に何か恥ずべきことを発見した場合」というのに、非常にリベラルな解釈を施しました。あるラビは、それを、「もっとかわいい人が見つかって、もっと好きになったら」と言いました。ですから、イエスは、彼らが言い伝えによって律法を空文にしていると言われたのです(7:13参照)。けれども、「妻に何か恥ずべきことを発見した場合は、夫は離婚状を書」くことについて、ラビの間でさえ意見が分かれていました。しかしながら、それでもモーセの律法には、離婚状を書く規定があったのは否定ができませんでした。それで、パリサイ人たちは、イエスが、結婚に関してとても厳しい見方をされていることを知っていて、イエスをモ−セの律法と争う立場に置こうとしました。それは、みんながモ−セの律法は、神の律法であると認めていたからでした。つまり、モーセが神によって霊感を受けて、神がモーセに律法を授けられたということです。したがって、イエスがモーセの律法に反することを言われたら、どうやってご自分が神から来られたことを主張することができるか、という具合になります。実は、このことが、その質問の背後にあった争点でした。つまり、モーセの律法に反するように仕向けようとしたわけです。「イエスは答えて言われた。『モーセはあなたがたに、何と命じていますか。』(10:3)」イエスは、彼らがイエスをモーセの命令と対立させようとしていたのを、よくお分かりでした。「彼らは言った、『モーセは、離婚状を書いて妻と離別することを許しました。』(10:4)」妻に離婚状を書いて離別することができる言ったのは、モーセですと。  「イエスは言われた。『モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。』(10:5)」心がかたくななので、人間が神の理想に到達できないことをお認めになっています。神は、モーセの律法の中で、心のかたくなさのためにある一定の余裕を設けられました。これは神の意図ではなく、これは神のご目的ではなく、神が最も良いと思われていたことではありませんでした。ですから、イエスは、モーセの律法の前に溯られます。「初めに、神が人を造られ、女を造られ、女をアダムに与えられました。(10:6の言い換え) 」「初めに」つまり、神の意図、神のご目的、神の願いは、初めに、「神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。(訳者注:新共同訳10:6-8 欽定訳に出てくる表現で新改訳には出てこないが、この新共同訳に出てくるものが二つある。一つは、「妻と結ばれ」という部分。もう一つは、「一体」という訳である。)」というものでした。結婚による結びつきは、人が経験できるうちで、人間のレベルでは最も親密な結びつきです。二人が一体になります。これは、この上なく麗しく、この結びつきから産まれる子どもにあって、それがかなえられます。麗しい子どもを見るとき、「これは、私の子どもだ。」とは言えません。「これは、私たちの子どもだ。」と言わなければいけません。一体なのです。子どもの23の染色体は母親から来て、残りの23は父親から来るのですから、二人は、子どもにあって一体になるのです。その子は、私たちのものです。この子が悪さをしているときに、「あなたの子どもだ。」とは言えません。あなたの子どもでもあるからです。この子は、「私たちの」子どもなのです。良かれ悪かれ、「私たちの子ども」なのです。これは、麗しいことです。二人が組み合わされたものが、子どもだからです。私たちの子どもには、私に独特の特徴があるし、ケイに独特の特徴があります。二人が一体になるのです。そこには、きずなと結びつきがあります。それからイエスは、「それは、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(10:8-9)」と言われました。ですから、イエスは再び結婚に関して、とても厳しい命令をお与えになりました。これが神の理想であることをお認めになりました。初めは、これが神の意図だったのです。これが、神の目的、計画、神の理想でした。心がかたくななために、人間が神の理想によって生きることができないのは、悲しいことです。結婚において、相手に対して心がかたくなになるのは、悲劇です。「もうこの人は必要ない。もうこの人といっしょに住みたくない。」心がかたくなになっているのです。悲しいことです。互いを滅ぼすような関係になるよりも、モーセは、「離婚状を書きなさい。」と言ったのです。これは、彼らの心がかたくなだからです。しかし、これは、神が意図されていたことではなく、神が最も良いと思われていることではありません。このことを、理解しなければなりません。しかし、心がかたくななので、神の最も良いと思われていることではないのですが、神はそれをお許しになって、許容なさっているのです。  それで、一行は家に戻りました。弟子たちは、このことを心に留めていました。それで、「弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。(10:10)」11節で、「イエスは彼らに言われた。『だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。』(10:11)」この「別の女を妻にする」をイエスが実際に考えておられたことに言い換えるなら、「別の女を妻にするために妻を離別するなら、離別した妻に対して姦淫を犯すのです。」になると私は思います。牧会を長くしている中で、夫か妻のどちらかが出ていくと決めた場合を、数え切れないほど取り扱いました。一方が打ちのめされて、ぼろぼろになって、電話をかけてきます。「夫が出ていきました。この家族にはあきあきした、もういっしょに住みたくない、と言いました。」と言います。私はいつも、「別の女が絡んでますね。」と言うと、「いいえ、違います。そうとは思いません。」「私はわかっています。だれかが入ってきていないなら、出ていったりしません。」出て行く先がなければ、離れていかないことを繰り返し、繰り返し見てきました。ですから、「別の女を妻にするために妻を離別するなら、妻を離別する前の妻に対して姦淫を犯すのです。」同様に、「妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。(10:12)」さて、再びモーセの律法が、心のかたくなさのゆえに離婚状を書く権利の選択肢を与えたことに戻ります。もし、ひとりの人が離婚をして、再婚したら、その二人は姦淫の中で生きているのでしょうか。聖書は、「姦淫をする者は、神の国に入ることができません。(1コリント6:9-10参照) 」と言っていますが、その二人は神の国に入ることができないのでしょうか。モーセの律法の下では、離婚状が書かれたら、それでその関係が終わりました。さて、モーセの律法の下では、「何か恥ずべき事」は、厳密な意味では姦淫と解釈されました。モーセの律法では、もし、男あるいは女が姦淫を犯したら、律法における罰は、石打ちでした(申命22:22、ヨハネ8:5参照)。ですから、もし妻が姦淫を犯したら、夫は長老に妻が姦淫を犯したことを報告します。長老たちはこの女を前に連れてきて、彼女を調べて、姦淫の罪を犯していたら、この女は石打ちにされます。妻が疑いを持った夫の場合も同じです。もし実際に姦淫の罪を犯していたら、この男も石打ちにされます。したがって、罪を犯した方が、石打ちにされて殺されます。それで、あなたは他の人と結婚してもよくなります。その事実の効力によって、あなたはやもめ、あるいは男やもめになるのです。現在、私たちの住む時代にも、依然として心のかたくなさがあり、夫婦によってはいっしょにいることができなくなることがあります。二人が、神の理想まで到達することができず、あるいは到達しないのは、お互いのせいで、二人でやったことなのです。もしあなたが、何も悪くなくて、妻が、「もうこれでおしまいだわ。もうあなたとは関係ないわ。」と言って、他の男に興味を持つなら、あなたは罪のない被害者です。逆も真なりです。あなたの夫が出ていき、もうあなたに興味を失ない、他の関係をつくっているという逆の場合です。それであなたは、かつて存在していたきずなから自由になります。新しい関係が存在するので、もうその関係はないからです。  旧約聖書にダビデの話があります。彼は、「ご自分(神)のこころにかなう人(1サムエル13:14、使徒13:22参照)」と旧約聖書があかしする人です。神は、イスラエルの君主として、サウルを退けられました。神は、ご自分のこころにかなう人を探しておられました。ダビデがその人でした。しかし、ダビデは、完璧に道徳的に正しかったわけではありません。誰もが、彼がバテ・シェバとの罪のことを知っています。これは、秘密裏に行なわれました。ダビデは、隠蔽しようとしました。バテ・シェバの夫ウリヤ殺害の企てをしたとき、上手く覆い隠せたと思いました。けれども、疑惑が残りました。それだけでなく、預言者ナタンに神からの啓示がありました。ナタンはついにダビデのところに来て、その罪を直視させました。ダビデは、預言者から言われた自分の罪を直視して、「私は罪を犯した。(2サムエル12:13参照)」と言いました。この預言者は、その後すぐに、「あなたの罪は赦された。」と言いました。さて、ダビデはバテ・シェバと離婚しませんでした。姦淫の関係で生まれた子どもは死にました。しかし、ダビデとバテ・シェバとの関係で生まれた二人目の子は、ダビデの次に王座を継いだソロモン王でした。ですから、ここに、ダビデに対する神のあわれみと恵みを見ることができます。神のあわれみと恵みが働く余地をいつも残しておかなければいけません。ヨハネの福音書8章で、姦淫の場で捕らえ、連れて来られた女の場合もあります。ここでもまた、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。(8:5)」イエスは言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。(8:7)」またここにも恵みがあります。「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、女はそのままそこにいた。イエスは身を起こして、その女を見て言われた。『あなたを罪に定める者はなかったのですか。』彼女は言った。『だれもいません。』そこで、イエスは言われた。『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』(8:9-11参照)」神の恵みは、神の恵みが働く余地をいつも残します。さて、神は、ひとつの関係から別の関係に移る許可書を与えておられるのではありません。神は、私たちにきづなをつくること、ふたりの者が一心同体になることを求めておられます。神の理想は、あなたがたが神の御霊にあなたの心で働いていただき、あなたがたの違いを解決していただくことです。主のみこころを求めてください。あなたがたの心が御霊の働きに柔らかくなるようにしてください。あなたが自分をささげて、誓約した相手に柔軟になるようにしてください。聖書は、神が離婚を憎むと教えています(マラキ2:16参照) 。離婚は、大変な経験です。辛い経験です。傷つく経験です。誰も無傷でいることはできません。心がかたくなになるとき、関係が気まずくなるとき、傷が、感情に傷がつきます。この関係を切ろうと努力すると、互いに傷つけ合うことになります。悲しい状態です。これは、神の願っておられることではありません。しかし、心がかたくななために、モ−セの律法は離婚の余地を残しました。  「さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。(10:13)」親ばかは、かわいいものです。人が自分の子どもを認めて注目を受けるのが、親は大好きです。何か特別なものがあるのです。自分の子が一番かわいくて、世界中で一番賢い子なのです。他人がそのことに気づいてくれるのも大好きです。親たちは、イエスが自分の子に注目していただきたいと思いました。ラビのところに行って触ってもらうという習慣は、現在にもあります。さわってもらって祝福を受ける、というものです。エルサレムにヤマニ派のラビがいました。もう5年間も彼に会っていません。白髪ひげの、はつらつとした小柄な人物でした。大抵この人は、宮のある場所にいました。壁の横ではなくて、概して旅行者がいる方にいました。この小柄な人は、そのあたりをあちらこちら歩きながら、叫んで祈るのでした。はつらつとした小柄な、ヤマニ派のユダヤ人です。面白いのは、本当にたくさんの人、若者が彼のところに来て、触ってもらうことでした。祝福にあずかるためです。彼らは、触ってもらおうとして彼のところに行きます。これは習慣です。長く続いている習慣です。ラビのところに、著名なラビのところに行きます。それは、触れることで、このラビがあなたに祝福を分け与えるのです。ですから、触ってもらおうとして、両親が子どもを、ラビ、先生であるイエスのみもとに連れて来ました。  けれども、弟子たちは、不快感を覚えました。親たちを差し止めました。親たちをしかりました。「主の邪魔をしてはならない。わからないのか。」と言って、親たちをしかりはじめました。「イエスはそれをご覧になり、憤って、(10:14)」ここのギリシャ語は、「憤りに満ちて」という言葉です。弟子たちは、イエスのみもとに人が来るのを妨げたのです。イエスは、いつも心を開いて、接したかったのです。子どもをさわるというような些細なことであっても、自分はいつも人々と接する準備があることを知ってもらいたかったのでした。邪魔になりませんでした。イエスは、それを愛されました。イエスは、弟子たちが親をしかっているのをご覧になり、憤りに満ちて、「彼らに言われた。『子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。(10:14-15)」子どものように心を開いて、単純に信頼して受け入れなければいけません。私たちがとても複雑になっていることは、悲しいことです。悲しいことに、私たちは仮面をかぶり始めます。自分をとり繕おうとするのです。子どもはそんなことはしません。彼らは無遠慮です。正直です。とても麗しいです。私は、これがとっても気に入っています。私の孫娘は、私を見て欠点を全部指摘します。彼女はとっても正直です。痛々しいぐらい正直です。これは、子どもの特徴の一つで、隠しだてするものは何もありません。隠そうともしません。この純真さと正直によって、私たちも神の国を受け入れるのです。子どものように来るのです。「そしてイエスは子どもたちを抱き、(10:16)」何と麗しい光景でしょうか。私は大好きです。イエスが、子どもたちを抱き上げるのです。私もそこにいて、自分の子どもを連れて来て、イエスに抱かれるのを、手を置いて祝福されるのを見たかったと思います。何とすばらしい主の姿でしょうか。イエスが優しく触れて下さるので、私はこの方に引き寄せられるのです。  「イエスが道に出て行かれると、(10:17)」この道は、エルサレムへの道です。イエスは、エルサレムに行かれる途中でした。そして、十字架にかけられる途上におられました。イエスは、モーセとエリヤと、エルサレムで遂げるご自分の死について話されました。一行がまだガリラヤ上部にいるときに、9章31節で、イエスは弟子たちに、「『人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。』と話しておられた。しかし、弟子たちは、このみことばを理解できなかった。」けれども、イエスは、エルサレムへの途上におられました。イエスは、顔色ひとつ変えずに、十字架へ向かわれています。そして、イエスのみがこのことを悟っておられたようです。弟子たちは、このことに気づいていませんでした。まだ御国のことを考えていたのです。「イエスがエルサレムに着いたら、ローマ政府を転覆され、何もかもを正されるのだ。私たちは、この方が御国を立てられたら、その時に御国において、権威と権力を持つようになる。」と考えていたのです。  「イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、『尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいのでしょうか。(10:17)」他の福音書には、この人は若く、金持ちであったことが書かれています(マタイ19:20参照)。福音書の一つには、彼が役人であったことが書かれています(ルカ18:18参照) 。彼は、これがあれば幸せな生活を送れると私たちが思っている物を持っていました。富さえあれば、また若くなることができたら、余りに早く年を取ってしまった。遅すぎた。おいぼれてしまった、と。今ある知識と持ち物があって若くなることができたら、金持ちにさえなれば、地位さえあれば、と私たちは考えますが、この人ははそのすべてを持っていました。けれども、彼には欠けたことがありました。成功した人には、成功は、それほど意味を持ちません。。成功するために、目的を果たし達成するために、私たちをせきたて押しやるのは、幻想、空想です。けれども、一旦目的を達成する、果たすと、興奮が失せててしまいます。ドナルド・トランプ(訳者注:マンハッタンにトランプ・タワ−などを建てた建築家で、一時は大金持ちだったが、カジノの経営に失敗し落ち目になった。)は、「興奮は、追及することにある。見つけてしまったら、もうそれは興奮ではなくなる。」と言いました。テッド・ターナー(訳者注:CNNなどを所有する放送業界の大物。)は、「興奮は、追いかけることだ。捕まえてしまったら、もうむなしいのだ。」と言いました。期待する喜び、空想を私たちは持ちます。「もし、金持ちならば、もし、地位があったら、私は満たされるだろう。」と思います。この人はすべてを持っていましたが、むなしかったのです。彼は、イエスの中に純真さと麗しさがあるのに気がつきました。ひょっとすると、子どもたちを見たのかもしれません。子どもがイエスにどうふるまったか、またイエスが子どもにどう対応されたかを見たのでしょう。彼は、商売に明け暮れ、蓄財にかまけ、子どもと遊ぶ時間がなかったのです。  イエスが私たちの心と人生を支配されると、私たちの態度が本当に変わるので、驚きです。ずっと前に、牧会を始めて間もないとき、私たちはトゥーソンにいました。その時、私たちは、空軍の隊長の夫婦の家の隣に引っ越しました。神の御霊が彼らの心に特別に働いておられました。ジャンが最初に主を受け入れました。彼女は、新生したときから突進型の人でした。とても興奮して、イエスを主として、救い主として受け入れたときは、彼女は本当にすばらしい体験をしました。彼女は、喜びにあふれた、とてもすばらしい隣人でした。彼女が私に電話をしてきた日に、「チャック、私の家に来てください。話したいことがあります。」と言いました。彼女の家に行くと、「私は主が必要です。イエスを受け入れる必要があります。」ということでした。私たちは、彼女とともに祈り、彼女は主を受け入れ、さっきも言いましたが、新生したときから突進型の人で、喜びで満ちあふれました。彼女の夫のジムは、コーネル大学の教授でした。不可知論者でした。熱心な不可知論者でした。ですから、彼女は、自分がイエスを受け入れたことをどのようにして伝えるか、とても慎重になりました。彼女は、彼の機嫌がいいときの夕方まで待って、自分の体験を話そうと思いました。けれども、その夜に彼が空軍基地から帰ってきたら、娘たちがピョンピョン飛び跳ねて、「お母さん。チャックが今日ここにいたときのことをお父さんに話すんでしょう。」と言いました。彼は、「俺が不在のときに、いったい何が起きているんだ。」と言いました。それで、彼女は、彼に話さなければならなくなりました。それで、主は、ジムに伝える戸を開いて下さいました。私とジムが一緒にひざまずき、ジムがイエス・キリストを受け入れたあの日は、すばらしい日でした。二人には、三人のかわいい小さい女の子がいました。まるで、人形のようです。ジムが主を受け入れた少し後、ジムは転勤になりました。ジムは、戦略空軍司令部(SAC)に勤務していました。ジムはアラスカに転勤になりました。ですから、彼はトゥーソンを離れ、アラスカにある空軍基地に行かねばならず、その間ジャンがすべて荷造りをして、空軍が彼らをアラスカまで引っ越しさせました。しかし、ジムが先に行きました。わたしはジムから手紙を受け取りましたが、その手紙を今でも大切にしています。ジムは、イエス・キリストに導かれたことを感謝し、「チャック、かつて私は子供は地上の災いだと言っていました。小さいわが娘を見て、厄介者だ、邪魔者だと思っていました。面倒な奴等だと。けれども、イエスが私の心に入ってきて下さって以来、子供たちがここに来てくれるのが待ち遠しくてならないのです。会いたくてたまらないのです。私たちの子供に対する態度に、イエスは大きな違いをもたらして下さいました。」と言いました。(訳者注:ここでA面からB面に移るので多少録音が切れている可能性あり。)イエスが小さい子供たちを祝福しておられるのは、何と麗しい光景でしょう。  さて、この金持ちの若い役人は、世俗的なことに関しては、すべてのものを持っていました。しかし、自分の心の中には空虚さがありました。「尊い先生。私は何をしたらよいのでしょうか。」さて、イエスは、面白い答えの仕方をしておられます。「なぜ、私を『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。(10:18) 」このイエスの答えから二つのうちのいずれかの結論を出すことができます。イエスは、この若者に自分が尊くないとおっしゃっているのか、あるいは、イエスがこの若者の意識を呼び覚まし、イエスが神であることを気付かせておられるかどちらかです。私は、後者がそうだったと思います。イエスは、この若者に、おっしゃいました。「気付かずに、あなたは認めていることがありますね。自分が認識したことを見て御覧なさい。あなたはわたしに何を見つけましたか。わたしに何を願っていますか。わたしの子どもに対する愛に、人々に対する態度に何を見つけましたか。あなたの認識した、この生活の資質(qualityof life)は、神のいのちです。わたしは神です。あなたが人生に必要なのは、神です。あなたに必要なのは、神のいのちです。」そしてイエスは、若者に言われました。「戒めは、あなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』(10:19) 」十戒の石の板の二枚目にある第六の戒めは、人と人の関係について取り扱っています。彼は、「先生。私はそのようなことはみな、小さいときから守っております。(10:20)」と言いました。彼が空しく誇っていると私は思いません。この男は、品行方正だったのです。道徳的な人だったので、これはまた彼の資質となっていました。つまり、金持ちで、若く、地位があり、そして、品行方正だったのです。「私はそのようなことはみな、小さいときから守っております。」と彼が言った後に、「イエスは彼を見つめ、その人をいつくし」まれました(10:21)。もしこの人が、偽って誇っていたとしたら、イエスはそれを遮られたでしょう。イエスは、偽善には我慢できなかったからです。けれどもイエスは、彼が本心で言っているのがわかりました。イエスは彼を見つめ、いつくしまれました。  そして、「言われた。『あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになるでしょう。そのうえで、自分の十字架を負い、わたしについて来なさい。』すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人には多くの財産を持っていたからである。(訳者注:10:21-22欽定訳には、21節に“take up your cross"とある。) 」「あなたには、欠けたことが一つあります。」とありますが、興味深いことは、モーセの十戒石の板の一枚目は、神と私たちとの関係についてですが、一番最初の戒めは、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト20:3) 」でした。この人は、道徳的にモーセの十戒の後半の方を守り、品行方正な者であり、隣人と正しく付き合っていましたが、彼と神との関係は正しくありませんでした。彼の生活には神があり、それは自分の財産でした。まことの生ける神のほかに、ほかの神がありました。それによって、すべてを神に明け渡し、完全に神に従うことができませんでした。イエスは、「完璧になりたければ、完全になりたければ、わたしに完全に従うのを阻んでいるものを取り除きなさい。」と言われているのです。彼の場合は、それは金でした。イエスは、マタイの福音書で、ここのマルコにもありますが、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マルコ10:34)」と言われました。イエスはこの若者に、彼の前に立ちはだかっている物を教えられました。それは、「あなたの財産が、わたしに従うのに妨げになっています。」ということです。イエスは、私たちに語られています。あなたの生活の中で、イエスに完全にゆだねて従い、神を第一とするのに立ちはだかっているものは何でも、イエスが指をさされて、「ごらん。これはなくならないといけない。」と言われます。私に従うのを押しとどめているのはこれだよ、と。あなたが望んでいる満ち足りた豊かな生活からあなたを押しとどめているのはこれだよ、と。何であれ、あなたの人生の中で神の場所を奪っているもののことです。  そして、イエスが立ち去ろうとされたとき、「見回して、弟子たちに言われた。『裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。』(10:23) 」何たる困難を経験したのでしょうか。弟子たちは、驚きました。イエスは、また彼らに答えて言われましたが、少し言い方を変えて