Continued from Mark10 (#8038) 言われました。「子たちよ。富にたよる者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。(10:24) 」弟子たちはますます驚きました。そのことは、弟子たちを驚かせました。そして、互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。(10:26) 」さて、イエスが「らくだが針の穴を通る」と言われましたが、それは、町の大きな門あるいは教会の大きな門の脇に、夜によく開けたままにされていた小さい門のことを指摘する人たちがいました。町の大きな門は締められましたが、大きな門のところで、いつでもなんとか通れる小さい方の門がありました。らくだなどを連れてくるときは、らくだから荷物を下ろして、荷物をその小さい門をくぐらせ、その小さい方の門を通るために、ひとりの人がらくだの前に行ってらくだを引っ張り、もうひとりの人がらくだの後ろかららくだを押すのでした。このため、この小さい方の門は、「針の穴」と呼んでいました。つまり、何を言わんとしているかと言うと、強く押して、無理に進めるのであれば何とかなるということでした。十分努力すれば入れるということでした。しかし、イエスは、「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」という質問に対し、「それは人にはできないことです。(10:27) 」と言われました。救いとは、どれだけ強く無理に進めようと、どれだけ強く引こうと、どれだけ努力しようと、自分で自分を救うことはできません。いかにあなたが道徳的であろうと、自分の道徳性があなたを救うことはできないのです。イエスは、きっぱりと言われました。「それは人にはできないことです。」と。救いは人間の能力を超えたものです。十分善人になることはできません。十分善を行なうことはできません。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。(10:27) 」救いは主のものです。神は不可能をおできになります。神はあなたを救うことがおできになります。神はあなたを贖うことがおできになります。あなたを変えることがおできになります。どんなことでも、神にはできるのです。  「ペテロがイエスにこう言い始めた。『ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。』(10:28) 」それは、その通りでした。彼らは自分たちの網を捨て、舟を捨て、漁業を捨てました。イエスに従うために彼らはそれらのものを捨てたのでした。自分の持ち物に背を向けました。イエスに従うために彼らはすべての物を捨てました。「イエスは言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、』(10:29) 」この「わたしのために、また福音のために」というところが重要な点です。「『その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。』(10:30) 」イエスは、この若者に、すべての持ち物をすべて売り払えば、天に大きな宝を積む子とになるとおっしゃいました。神はあなたに借りをつくられません。神は決して人間に借りをつくられません。神に従うためにあなたが捨てたものは何でもそれに代わるものを提供することがおできになります。「その百倍を受けない者はありません。」それだけでなく、永遠のいのちが与えられるのです。「『しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。』(10:31) 」  さて、一行は、旅の途中でした。「一行は、エルサレムに上る途中にありました。(10:32) 」ヨルダンの谷を後にし、エルサレムに向かっていました。「イエスは先頭に立って歩いていかれた。(10:32) 」弟子たちは驚きました。イエスが考え込んでいらっしゃる風であることが、弟子たちにはわかりました。エルサレムで何が待ち受けているのか、イエスはご存じでした。弟子たちは、イエスが先頭に立って歩いていかれた時に、何が起こっているのかよくわかっていませんでした。「弟子たちは驚き、また、あとのついて行く者たちは恐れを覚えた。(10:32) 」何か、ひょっとすると何かたまり続けていたイエスに対する反感や様々なことがあるのではないかとの予感があり、イエスがかなり真剣な様子であるのを見て、弟子たちは恐れを覚えました。「すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。(10:32) 」イエスは、言われました。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らは、あざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。(10:33-34)」イザヤ書50章に戻って下さい。イエスは、イザヤ書50章の預言を告げられているようなものです。4節にこう書かれています。「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、(イザヤ50:4-5) 」耳を開くとは、奴隷の印でした。これは、イエスに関する預言です。「神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間とおなじようになられたのです。自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6-8参照)」耳を開かれたのです。「父よ。わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。(ルカ22:42参照) 」と。父に従っておられます。「主は、私の耳を開かれた。」「打つ者に私の背中をまかせ(イザヤ50:6) 」とここで預言されているように、彼らはイエスをむち打つのです。「ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。(イザヤ50:6) 」ですから、これらのことが、イエスについてイザヤ書の中で預言されていました。イエスは、私がエルサレムに行くとこのようなことが起こるのだとおっしゃられたのでした。「まず、わたしは祭司長に引き渡され、彼らはわたしを死刑に定め、わたしを異邦人に引き渡し、異邦人はわたしのことをあざけり、むち打ち、つばをかけ、殺します。しかし、三日目にわたしはよみがえる。」と。しかし、どういうわけか弟子たちはそれを聞きませんでした。どういうわけかイエスが、自分は殺されると話されると、弟子たちはびっくり仰天し、それ以上聞きませんでした。  さて、ヤコブとヨハネがそこにいました。前回イエスが、9章で自分がエルサレムに行き、人々がどのように自分を殺すかを話をされた時、31節です。「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。」そのすぐ後、弟子たちは、だれが御国では一番偉いかを、激しく論じあっていました。イエスは、「人々がわたしを殺す。」とお話になったところでした。それで、弟子たちは誰が一番偉いかを議論していました。また、ここで、イエスは、わたしは殺されると弟子たちにおっしゃっているのです。それで、どうなったのでしょうか。「ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスのところに来て言った。『先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。』イエスは彼らに言われた。『何をしてほしいのですか。』彼らは言った。『あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。』(10:35-37)」彼らは依然として地のものを求めています。さて、彼らが弟子だったのです。彼らは弟子でした。ある意味で、イエスの奉仕をするために、完璧な人を召されたのではないとわかって、慰められます。無論、誰も完璧な人はいないわけですから、できないことではありますが。ですから、イエスは、私たちのような人を用いなければなりませんでした。私たちは誤解をしますし、自己中心的な願いや動機を持っていることもしばしばです。しかし、イエスは、私たちのような人をお用いになります。しかし、私たちをお用いになれる前に、変えられなければなりません。主の御霊で満たされなければなりません。聖霊によって変えられなければなりません。しかし、変えられて、世界をひっくり返したのはこのような人たちでした。ここでは、彼らは依然として競争していました。誰が一番偉いかを議論したことを認め、恥ずかしい思いをしました。イエスは、「仕える者にならなければいけない。他の人に仕えることを学ばなければいけない。」と言われました。それで、イエスは彼らにお尋ねになりました。「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、」これは、御自分の死について言及されたのでした。「わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。(10:38) 」「あなたがたは、そのようなものを対処できますか。」「彼らは『できます。』と言った。(10:39) 」彼らは、イエスが何のことをおっしゃっているのかも分かっていませんでした。彼らは野心のために盲目になっていました。「イエスは言われた。『なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた、あるいは備えられている人々があるのです。(10:39-40参照)」つまり、そのことはすでに神に与えられていることですという意味です。  「十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。(訳者注:英語は、 filled with indignations) 」これは、「とても不機嫌になった」(訳者注:欽定訳では、 displeased「不機嫌」が用いられている。) と同じギリシャ語です。「ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。(10:41) 」「あいつら、抜け駆けしようとしやがって。」「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者を認められた者たちは彼らを支配し(lordship)、また、偉い人たちは彼らの上に権力(authority)をふるいます。(10:42) 」人が人を支配しようとする、これが人の問題の一つです。つまり、支配権(lordship)、権力(authority)を行使したいという願いのことです。権力(power)をどう取り扱うかは、容易ではありません。慢心せずに権力を取り扱う能力のある人はわずかしかいません。イエスは、異邦人の場合は慢心してしまうとおっしゃっているのです。選ばれた者は支配権を行使し始めると。「しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。(10:43) 」イエスは、ここでギリシャ語の「仕える者(servant)」という言葉を使っておられます。偉い人は誰でもあなたに仕える者です、と。「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、(10:44) 」ここで、イエスは、しもべ(奴隷)、デュロスという言葉を使っておられます。ですから、「みなのしもべになりなさい。(10:44) 」奉仕者(minister)と仕える者(servant)といった言葉はみな同じです。あなたの必要に使えるのです。残念ながら、長年使っている間に、こういった言葉が特別待遇を表す肩書きのようになってしまいました。The Reverendあるいは、the Most Right Reverend 、the Most Holy Right Reverend(訳者注:the Most Reverendは、archbishop、bishopに対する尊称、the Right Reverendはbishopに対する尊称といったように聖職者、牧師の尊称を表す。)あまりにたくさんの言葉を肩書きにつけることができるので、びっくりさせられます。そして、そのような肩書きがつけば、自分が高くされたようになり、特権や、特別に引き立ててもらうことを求めるようになります。誰かに自分の鞄を持ってもらったりするんです。それは自分が実は、仕える者(servant)だから、おっと、牧師(minister)だからです(訳者注:英語でministerと言うと牧師をさす場合もあるし、奉仕者という意味もあるが、どちらかと言えば、前者のことの方が多い。)。「仕える者」というとそんなに地位が高いように聞こえませんが、本当の意味で「仕える者」という言葉を使うと、ミニストリ−がどういうものであるべきかが理解でき始めます。それは、仕えることです。いえ、それ以上のことです。しもべ(奴隷)であることです。  「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。(10:44) 」その例ですが、「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。(10:45) 」「わたしが来たのはあなたがたに仕えてもらうためではなく、あなたがたに仕え、あなたがたのためにわたしのいのちをあたえるためです。」と。真に偉大になる方法は、上ではなく下になることです。神の御国で偉くなりたいのであれば、みなに仕える者になることを学ばなければなりません。さて、イエスは、エルサレムに向かう際に、このメッセ−ジを弟子たちに印象づけようとされます。過越の祭の食事を二階の広間で祝うために集まった時、イエスは手ぬぐいを取られ、部屋を回って、それぞれの弟子たちの足を洗われました。それは、仕える者の仕事でした。そして、弟子たちの足を洗い終わり、イエスは言われました。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。」弟子たちは、「はい、もちろんです。」と言いました。イエスは言われました。「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたは正しい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(ヨハネ13:4-14参照)。ここでも、仕えるという考えです。ミニストリ−の場は、奉仕の場です。  一行は、ヨルダンの谷からエリコに上ってきました。これは、ヨシュアの時代のエリコとは別の場所でした。そのエリコは、5マイル(8 km)ほど離れたところにありました。このエリコは、イエスの時代のエリコでした。北のエリコ(Upper Jerico)と南のエリコ(Lower Jerico)がありました。北のエリコは、エリ−トの人のためのものでした。ヘロデは、冬の宮殿、偉大な冬の宮殿をこのエリコに造りました。北のエリコに、ヘロデは、プ−ルや体育館といった贅沢なものが備わった宮殿を持っていました。南のエリコは、どちらかというと庶民の都市でした。この二つのエリコは、近くにありました。二つの間は短い距離でした。「彼らはエリコに来た。(10:46) 」これは、南のエリコのことでした。「イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、(10:46) 」つまり、ヘロデの宮殿があった北のエリコの方に出られるとという意味です。「テマイの子バルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。ところが、ナザレのイエスだと聞くと、(10:46-47)」バルテマイは、なぜ群衆が来ているのか、この騒ぎは何かと尋ねると、人々は、「ナザレのイエスが通っているのだ。」と言いました。すると、「『ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。』と叫び始めた。(10:47) 」イエスをメシヤの称号である「ダビデの子」と呼びました。イエスの弟子たちと同じように、バルテマイもイエスが御国を建設する、イエスが王座に着き、支配するのだと考えていたに違いありません。王国時代には、盲人が見えるようになり、足なえが歩くようになり、耳の聞こえない人が聞こえるようになると。イエスは、そのようなわざをなさっていました。イエスは、盲人の目を開いていらっしゃいました。バルテマイもイエスのことを聞いていました。イエスの名声は広まっていました。特に、虚弱者の間で広まっていました。特に盲人の間で広まっていました。みんなイエスが盲人の目を開いておられたことを聞き及んでいました。ですから、ここにバルテマイにも機会が与えられたのです。夢に見ていた、待ち焦がれていたこと、メシヤであるイエスにお目にかかる機会が与えられたのです。イエスが他の盲人になさったことを知っていましたから、自分も見えるようになるために、イエスにお会いしたいと願っていました。  それで、彼は、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めました。回りにいた人たち、群衆は、「黙りなさい。静にしなさい。」と言いました。しかし、彼は制止されたりしませんでした。彼は、ますます叫び立てました。「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」「すると、イエスは立ち止まって、(10:49) 」イエスはバルテマイの叫びを聞かれました。イエスは立ち止まられました。私は、このことがとても気に入っています。劇的な出来事が起こりました。イエスは立ち止まられました。イエスは、十字架に向かっておられました。イエスは、エルサレムに向かっておられました。イエスは顔を火打ち石のようにしておられました。イザヤ書50章を見ると、「私は顔を火打ち石のようにし、(イザヤ50:7) 」とあります。イエスは、十字架に向かっておられましたが、必要のある男に仕えるために、途上で立ち止まられたのです。立ち止まって、あなたの必要に仕えることができないほど、イエスが忙しすぎることは決してありません。「すると、イエスは立ち止まって、『あの人を呼んで来なさい。」と言われた。(10:49) 」イエスは、「あの人をここに連れて来なさい。」と言われました。「そこで、彼らはその盲人を呼び、『心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。』と言った。(10:49) 」それで、この男は興奮し、上着を脱ぎ捨て、立ち上がりました。今朝お話したように、上着を脱ぎ捨てることに何か重要性があったに違いありません。ひょっとすると、もうぼろぼろの古着になっていたのかもしれません。イエスに会えば、もう古着を着続けることはないことに気付いたのでしょう。イエスに会えば、違った人生になる、人生が変わる、と。彼は、上着を脱ぎ捨て、イエスのところに来ました。「そこでイエスは、さらにこう言われた。『わたしに何をしてほしいのか。』すると、盲人は言った。『先生。目が見えるようになることです。』するとイエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。(訳者注:欽定訳では、「あなたを健やかしにた」となっています。)』(10:51-52)」ですから、私は、上着を脱ぎ捨てることに何か重要性があったと思うのです。それは、彼の信仰の証拠だったと思うのです。彼は自分の人生が同じままであることはないとわかっていた証拠だと。後でこの男が汚い古着を捜して、「誰か、私がおいておいた古着を知りませんか。」などと言ったとは思えません。彼は、もうこのようなものは必要ないと分かっていました。彼は、それを脱ぎ捨てて、イエスのところに来ました。ちょうど、白い杖を捨ててしまうのと同じです。イエスにお会いするのだから、もうこんなものはいらない、見えるようになるのだから、と。ですから、「イエスは、彼に言われた。『さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。』すると、すぐさま彼は見えるようになり、(10:52) 」すぐさまだったのです。「イエスの行かれる所について行った。(10:52) 」イエスは、「さあ、あなたの道を行きなさい。(訳者注:英語では、goyour wayとなっている。)」と言われました。しかし、面白いのは、一旦イエスによって彼の目が開かれると、イエスの道が彼の道になったのです。私たちも一旦イエスに本当にお会いすると、イエスの道が私たちの道になります。「私たちはここにおります。」と言って、イエスに従うようになります。イエスの道に従います。何故でしょうか。それは、イエスが愛によって私たちの人生に触れて下さったからです。一旦イエスに本当にお会いすると、人生が同じままであることはありません。