Continued from Mark14 (#8042) さってください。』と祈るのは、落ちこぼれだ。信仰が足りない。」と言う人たちがいます。イエスご自身が、「どんなことでも、神にはできます。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」とお認めになっているのに、どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。後に、イエスは同じ祈りを3回祈られたことが書かれています。2回、3回祈りを繰り返すのなら、最初に祈った時には信仰がなかったのだ、と言う人たちがいます。これらはみな、信仰についての奇妙な教えです。どのようにして、あなたの願いがかなえられるか、どうすれば、神をあなたの命令に対する「可愛い魔女ジニ−(Little Jeanny)」にできるか(訳者注:昔のテレビ番組で、お願いをするとランプの中からジニ−という魔女があらわれて、願いをかなえてくれるという筋書きのドラマがあった。) 。彼らは主の祈りを、「私の国が来ますように。私の願いが天でも行なわれるように地でも行なわれますように。」と変えています。ですから、イエスは、ご自分を神のみこころに服従させたのです。  「それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。『シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。(14:37-38)」ああ、このとおりですね。心は燃えていても、私たちの肉は弱いのです。「私はどのような人になろうか。」と心は燃えています。「神のために何をしようか。」と心は燃えています。しかし、ああ、肉体は弱いのです。肉の弱さために、決意が果たされないことが実に多くあります。「イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。イエスは3度目に来て、彼らに言われた。『では、ぐっすりと休みなさい。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。(14:39-41 41節については新改訳脚注参照)」さて、この時点で、この41節と42節では、時間の隔たりがあった可能性があります。3度目のときイエスが来て、「では、眠っていなさい。ぐっすりと休みなさい。もう十分です。時が来ました。」と言われてから、いくらかの時間がたっていたかもしれません。30分間、1時間かもしれません。イエスは彼らが眠っているのを見ておられたのでしょう。彼らのために祈られていたのだと私は思います。「あなたがたは、わたしとともに目をさましている(watch)ことができなかった。けれども、わたしはあなたがたを見ていよう(watch)。」おそらく、この時イエスは、弟子たちが経験するものをご存じで、とりなしをしておられたと思います。彼らが経験する心痛、痛み、疑問を知っておられました。この日は、彼らにとって非常に過酷な時になるのです。イエスが十字架にかけられるのを見るときに、彼らの夢が、ぶち壊されるからです。イエスは、ご自分の死が何を意味するのか、彼らに正確に理解させることができませんでした。事実、イエスがご自分の死のことを話されていた時はいつも、彼らはそれを謎のように捉えていました。彼らの望みが打ち砕かれるのをご存じで、彼らが眠っているのを見、彼らのために祈って時を過ごされたのだと思います。  ユダは、兵士や祭司長や役人を率いていました。そこでイエスは、「立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。(14:42)」と言われました。「そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、12弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。『私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。』それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、『先生。先生。』と言って、口づけした。すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。(訳者注:14:43-46 欽定訳では「先生」が2回繰り返されている。)」何と恐ろしい背信行為でしょうか。福音書の一つには、イエスが、「口づけで、わたしを裏切ろうとするのか。(ルカ22:48参照) 」と言われたことが記されています。英語ではキス(kiss)という言葉がありますが、かえるにチューをするし、ほおに口づけをするし、赤ちゃんの額にキスをしますが、愛する者たちの間での情熱的な口づけもあります。ギリシヤ語には、口づけにいろいろな言葉があります。ほおに口づけする口づけがあり、「あなたがたは聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい。(ローマ16:16等) 」がそれです。古式豊かな田舎に行けば、街角であいさつをかわすとき、握手をするのではなく、抱き合って互いのほおに口づけをします。アラファト(訳者注:PLOの議長)が時々そうするのを見ていると思います。ユダのことを思い出させますね(訳者注:これには、いろいろな意味が含まれていると思いますが、アラファトは偽りと背信のかたまりです)。これは、単なるあいさつの方法です。そして、もちろん、愛する者に対する情熱的な口づけがあります。このギリシヤ語がここでは用いられています。ユダは、情熱的にイエスに口づけをしたのです。ユダのことは後でもっと話しますが、「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。(14:21)」。  「そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて・・・。」ヨハネは、この人がペテロであることを教えています(ヨハネ18:10参照)。「大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。(14:47)」ヨハネは、そのしもべの名がマルコスであることを教えています。イエスは彼の耳をいやされました(ルカ22:51参照) 。耳を拾って元に戻されたのです。彼をいやされました。「イエスは彼らに向かって言われた。」おそらく、ペテロは眠たかったのでしょう。眠りから目覚めたところで、瞼は重かったでしょう。ぐっすり眠っていたのですから。大きな騒ぎがあり、イエスが捕まえられているのを見たペテロの最初の反応ですが、自分の剣をさやから抜き、辺り構わず振り回しはじめました。「自分の前に立ちはだかるものは、注意せよ。」と。その人はたまたまマルコスでした。あわやのところです。右の耳が切れました。おお怖い。ある人は、ペテロは右利きでマルコスが離れようとしていた時、右の耳が切れたと言いますが、私にはわかりません。イエスは彼らに答えて言われました。「『まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。』すると、みなが・・・」これは弟子のことです。「イエスを見捨てて、逃げてしまった。(14:48-50)」「あなたがたはみな、わたしのゆえにつまづきます。(14:27参照) 」弟子たちはみな、逃げてしまいました。「ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕まえようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(14:51,52)」ある推測があって、それはおそらく正しいと思いますが、マルコが自分自身に起こった出来事を記録として短く挿入しているのではないかというものです。マルコはその時点で、おそらく12、13歳だったでしょう。彼の家族や叔父などがみな、イエスにかかわっていたので、この少年は、男の子がよくするように、イエスの回りをうろうろしていたのでしょう。人々が彼をつかんだ時、身に着けていた亜麻布の上着をつかんだ時・・・、これはマルコ自身の短い挿入だと考えられています。マルコの福音書は、大部分がマルコがペテロから聞いたことによって構成されています。ですからマルコの福音書は、基本的にはペテロの記述です。マルコは、ペテロが主についてマルコに繰り返し話して聞かせたことを伝えています。ですから、ここはマルコ自身が、その晩にかかわっていたことを短く挿入したものなのです。  「彼らがイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来た。ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。そして、役人たちといっしょにすわって、火にあたっていた。(14:53,54)」ですから、ペテロは近くにいましたが、近すぎることはありませんでした。イエスといっしょの者だとわかるほど、近くにはいなかったのです。どういう結果になるか気になっていました。「さて、祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めたが、何も見つからなかった。(14:55)」彼らは、告発できるものを探しました。イエスが何か死刑になるような罪を犯すのを見た証人を探しました。「イエスに対する偽証をした者が多かったが、一致しなかったのである。すると、数人が立ち上がって、イエスを訴えて、次のように言った。『私たちは、この人が、「わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる。」というのを聞きました。』(ヨハネ14:56-58参照) 」だからイエスを死刑にしてください。「しかし、この点でも証言は一致しなかった。(14:59)」イエスは確かに、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。(ヨハネ2:19) 」と言われましたが、ご自分のからだの神殿のことを言われていたのです(ヨハネ2:21参照) 。彼らは、この点についても一致しませんでした。「そこで大祭司は立ち上がり、真中に進み出て・・」らちがあきません。「イエスに直接尋ねて言った。『何も答えないのですか。この人たちが、あなたに不利な証言をしていますが、弁明はしないのですか。』(14:60参照) 」しかし、イザヤは預言の中で、「毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。(イザヤ53:7) 」と言いました。弁明は全くされませんでした。「しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。『あなたは、ほむべき方の子、メシヤですか。』(14:61 新改訳脚注参照) 」さて、当時、メシヤは実際神の御子であると信じられていました。ですから、「あなたは、ほむべき方の子、メシヤですか。」という質問がなされたのです。現在のユダヤ人は、「ラビは、メシヤは神の御子ではなく人であると教えている。」と言います。けれども、著書「メシヤを探し求めて(The Search for the Messiah)」の中で、マークは、初期のラビはメシヤは神の御子であると信じていたことを示しています。ここではそれが明らかです。祭司長が、「あなたは、ほむべき方の子、メシヤですか。」といっしょにしています。それは、メシヤについてこう預言されているからです。「主はわたしの主に言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』(詩篇1:7参照) 」また、こう書かれています。「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、『不思議な助言者・・』(イザヤ9:6参照)」これは明らかにメシヤの預言ですが、この方は「与えられた子」です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3:16) 」それで、「あなたは、ほむべき方の子、メシヤですか。」とあるのです。「そこでイエスは言われた。『わたしは、それです。』人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。』すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。『これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。』すると、彼らは全員で、イエスは死刑に当たる罪があると決めた。そうして、ある人々は、イエスにつばきをかけ、(14:62-65)・・・」イザヤは、「つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。(イザヤ50:6) 」と言いました。東洋では、最もひどい侮辱は、人につばきをかけることです。そこでは、クリスチャンだということで、つばきをかけられることがあります。これによって恥辱と軽蔑を表します。どう避けるか、避け方は身についてきます(You learn to dodge)。 「御顔をおおい、こぶしでなぐりつけ(15:65)、・・・」体は実にすばらしく出来上がっていて、日曜日ごとにクォーターバックの人がものすごい勢いでなぐられたり、エンドの人がパスを受け取ってぶっつぶされたりするのを見ます(訳者注:毎週日曜日にTV中継されるフットボール試合のこと)。彼らは、ジャンプして起き上がります。あんな状態では、立ち上がるなんてできっこないと思います。しかし、ジャンプして起き上がり、ハドル(訳者注:次のプレ−を決めるための選手たちの集合) に走り戻ります。立ち上がるのがかなり遅くなる時もありますが、それでも立ち上がります。体は神によって破壊され、いや、組み立てられているので、破壊されることはありません。まあ破壊されうることもありますが、それにはかなり体をいためつけなければなりません。ほとんど本能的に私たちがすることがあります。ああ、殴られるから、殴られたらしかたなくそれにあわせて動いた方がいい、と考えることはありません。自然にそうなります。不意打ちをくらって不用意だと、クォーターバックは、かなり負傷します。相手がやってくるのを見ますと、リラックスして、体を回転させ、いっしょに転げ回ります。そうすると、それほど痛い思いをしなくてすみます。しかし、相手がやってくるのを知らずに、不意打ちをくらうと、かなり深刻な負傷を負うことがあります。ボクシングをしている人、たがいを拳でうちあっている人を見ますと、一撃が来るのが見えると、本能的にパンチにあわせてロ−リングすると言います。つまり、パンチがきても、それが来るのがわかっている限りは、反射的にそれにあわせてロ−リングすることができ、一撃のきつさを感じなかったり、一撃をまともにくらうことがないので、パンチを受けて立つことができるのです。それは、しかたなくそれにあわせて動く、それにあわせてロ−リングする自然の本能があるからです。しかし、顔や頭に覆いがかけられていると、一撃が来るのを見ることができません。そうなると、その一撃をまともにくらうことになります。したがって、イエスの頭を覆うことによって、彼らがこぶしでなぐりつけ始めると、イエスはそれをまともにくらいはじめたのです。「彼らは、あざけり始め、『誰が殴ったか言い当ててみろ。』と言いました。また、役人たちは、イエスに平手打ちを食わした。(14:65参照) 」イエスは、彼らから肉体的な虐待を受けられました。  このことが起こっている一方で、「ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、「ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。『あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。』しかし、ペテロはそれを打ち消して、『何を言っているのか、わからない。見当もつかない。』と行って、出口のほうへと出て行った。すると、鶏が鳴いた。(14:68については、新改訳脚注を参照) すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、『この人はあの仲間です。』と言いだした。しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。『確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。あなたはガリラヤ弁を話すから。(訳者注:欽定訳参照) 』しかし、彼はのろいをかけて近い始め、『私は、あなたがたの話しているその人を知りません。』と言った。するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、『鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。』というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(14:67-72)」うちひしがれてしまいました。私たちは、何度主に対し失敗してしまったことがあるでしょうか。約束したのに実行しなかったことが、どれほどあるでしょうか。誓いを立てて、破ってしまった誓いが幾つあるでしょうか。ペテロの誠実さに疑念をはさむことは、全然正しくないと思います。ペテロが、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。(マタイ26:35)」と言った時、ペテロは全く誠実であったと私は思います。ペテロは、自分の魂の誠実さを表明したのです。ペテロは真にそのように思っていたのです。ペテロは、自分のイエスへの一意専心と献身があまりに大きいので、イエスのために死ぬことができると真に信じていました。イエスを否定しない、と。それなのに、ペテロは主を否定したことが書かれています。ペテロがやらないと言った、まさにその通りのことをペテロはしています。使徒パウロは、ロ−マ人への手紙の7章の後半で、私たちがよく抱える問題について語っています。「私の中に、何らかの邪悪な原理が働いているのを見出だすのです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。私は、ほんとうにみじめな人間です。(ロ−マ7:21、19、24の言い換え)」とパウロは言いました。「実は、自分のしたくないことをしており、すべきであるとわかっていて、したいと思っていることをしていない。」ガラテヤ人に対してパウロは、「肉は霊に逆らい、霊は肉に逆らい、そのために私たちは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。(ガラテヤ5:17参照)」と言いました。イエスがペテロにおっしゃったように、「心は燃えていても、肉体は弱いのです。(マルコ14:38)」私たちはみな、そのことを理解しています。それがどういうことか、私たちはみなわかっています。私たちはみな、「決してやらない」と誓ったまさにそのことをしてしまうという同じ経験をしています。肉体の弱さです。神の恵みがとこしえまで続くことを知ることは、すばらしいことです。神は、私たちの造りを理解しておられ、私たちが塵であることをご存知です。あなたがたは塵でできているのであって、鉄鋼でできているのではありません。ス−パ−マンではありません。神はそのことをご存知です。時間を経ると、私たちは、そのことがわかるようになります。人間のもろさに気づきます。その際に、自分自身にがっかりすることが多いのです。ペテロのように、自分の失敗に対して、泣き出すことが多いのです。そんなこと、したくなかった。そんなこと、するつもりじゃなかった。でも、してしまった、と。ペテロが失敗して、その失敗に対して泣き出しましたが、二つ対照的なことがあります。イエスを裏切ったイスカリオテ・ユダがいます。後で、イエスが十字架につけられたのを見て、ユダは後悔します。金を返しに来てユダは、「この金を受け取ってくれ。私は罪のない人の血を売った。」と言いました。彼らは、「それはお前の問題だろう。受け取れない。血の代価だから、金庫には入れることができない。」と言いました。それで、ユダは、好きにしろと、床に金を投げました。ユダは後悔して、外に出て行って首をつりました。(訳者注:マタイ27:3-10参照)ペテロは、苦い思いをし、涙を流し後悔しましたが、赦されました。違いがあります。違いがあります。今日、たくさんの人が自分のしたことを後悔します。しかし、自分が望んでいるように、事が運ばなかったからだけです。自分の弱さと失敗のために、やるつもりではなかったのにと、心から悔いる人もいます。神は、あわれみ深い方で、赦してくださいます。ペテロは、そのようであっても、最初の教父として神に用いられました。非常に力ある宣教をしました。ペテロには挽回する機会がありました。使徒行伝4章で、ペテロはそれを非常に果敢に成し遂げました。ですから、あなたが失敗しても、それで落ちこぼれではないのです。神は、「あいつのことは、ほっとけ。」とは言われません。そうではなく、神は恵み深く、赦してくださるあわれみ深い方です。神は、再びあなたをしっかりと立たせてくださり、もう一度やりなさい、と言ってくださいます。今度は、もっとしっかりつかまりなさい。もっと近くにいなさい。追いかけるのではなく、わたしの近くにいなさい。いっしょにやってみよう、と。キリストによって、私は、どんなことでもできるのです。パウロは、「私は、私を強くしてくださるキリストによって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13参照。欽定訳ではキリストという言葉がはいっている。)」と言いました。キリストなしには、私は何もすることができません。しかし、キリストによって、どんなことでもできるのです。