Continued from Mark15 (#8043) ません。  「そして、彼らは没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。(15:23)」さて、没薬を混ぜたぶどう酒は麻酔のようなものでした。麻痺させて、痛みを感じなくするものでした。実際、エルサレムにいたある女性のグル−プは、十字架につけられた人たちのことをかわいそうに感じ、会のようなものを結成し、十字架につけられる人たちに与えるための調合薬をつくっていました。それは、十字架にかかっていることの苦しみや痛みをそれほど強く感じないように、異常な精神状態にするためのものでした。それをイエスに与えようとしましたが、それをお飲みにはなりませんでした。この麻酔を拒否されました。「それから、彼らは、イエスを十字架につけた。(15:24)」いったん十字架が地面に置かれると、囚人は十字架にのせられ、手を横木に置き、手に釘を打ち付けられました。小さな木製の足掛けがあってそこに囚人が立ち、囚人はゆるく縛りつけられると、囚人は死ぬまで十字架にかけられていました。十字架にかけられて、少し時間が経つと、筋肉がだらりとし体の関節が外れ始めるので、強烈な痛みに襲われます。体が十字架にかけられているため、重力がかかり、関節が外れ始めると、強烈な痛みに襲われます。もちろんこれは、詩篇22篇に、「私の骨々はみな、はずれました。(14節) 」と説明されています。通常は窒息死によって死にました。筋肉がだらりとし十字架にかかっていると、もはや呼吸ができなくなってしまいます。窒息死です。囚人から服を脱がせます。処刑する4人の兵士で囚人の服を分け合うのが、習慣となっていました。しかし、イエスの場合は、彼らは上着(garment)を4つに分けました。しかし、この衣服(robe)は特別なもので、イエスにお供をしていた女性の一人がつくったものに違いありませんが、「それは上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった。(ヨハネ19:23)」兵士たちは、「これはすてきなので、4つに裂いてしまうには、もったいない。くじを引こう。」と言いました。彼らは着物は分け合ったが、下着のためにくじを引きました。このため、ここに詩篇22篇18節が成就されました。  「彼らがイエスを十字架につけたのは、第三時(新改訳脚注参照) であった。」つまり午前9時でした。ゴルゴタで、イエスが上げられた時でした。「イエスの罪状書には、(15:26)・・・」この罪状書を掲げて通りを歩き、それを十字架の上に釘付けにしました。それは、囚人が十字架にかかっている時に、告発され有罪になった罪状をみなが見るためでした。「・・・『ユダヤ人の王。』と書いてあった。また、彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。(15:26-27)」イザヤ書53章12節が成就されました。「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。」そして、「こうして『この人は罪人とともに数えられた』とある聖書が実現したのである。(訳者注:マルコ15章28節について、欽定訳には、この記述がある。新改訳の場合は脚注参照のこと。) 」とマルコは教えています。「道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。(15:29)」これで、人々の様子を想像することができます。イエスが十字架にかかられていた時に、人々はただただ叫んでいたのでした。頭を振りながら、口汚ない言葉や嘲りの言葉を叫んだのでした。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。(15:29-30)」人々がイエスにしるしを求めた時、イエスは、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、3日でそれを建てよう。」と言われました。すると、彼らは、「この神殿は建てるのに46年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのです(ヨハネ2:18-21参照)。しかし、彼らはまたこのことを持ち出して来たのでした。「おお、神殿を打ちこわして3日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」と。  「また祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。『他人は救ったが、自分は救えない。』(15:31)」それは、何と真実なことでしょうか。もし、他人を救うためなら、イエスはご自分のことを救うことはおできにならなかったのです。もし、イエスがご自分を救ってしまわれたのであれば、イエスは、あなたのことを救うことはおできにならなかったのです。「他人は救ったが、自分は救えない。」祭司長がこの発言をした時に、自分の言ったことがいかに正確であったか、気づいていなかったに違いありません。イエスは、降りてくることもおできになりました。私たちにはそのことがわかっています。イエスはペテロに、「わたしを救うために、1万の御使いを呼ぶこともわたしにはできることができないとでも思うのですか(マタイ26:53参照)。しかし、父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。(ヨハネ18:11参照)」と言われました。したがって、十字架に上げられること、十字架にかかることにより、神のあなたへの愛がどれほどのものかをイエスは証しされました。神は、あなたの魂を罪から救うために、喜んで究極のことまでしてくださったのでした。神のあなたへの愛を決して疑ったり、疑念を挟んだりすべきではありません。万一、疑念を挟んだりするようなことがあるなら、十字架を振り返って下さい。十字架において、神はあなたがたに対するご自身の愛を明らかにし、示して下さいましたが、それは私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによるのです(ロ−マ5:8参照)。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:10)」決して、絶対に神の愛を疑ってはなりません。「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。(ロ−マ8:32) 」ですから、ここに私たちは、神の愛がとても力強く示されているのがわかります。イエスは十字架にかかり、十字架にかかってくださっているときに、様々な虐待を身に受けてくださいました。「キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。(15:32)」と彼らは言っていました。律法学者たちは言っていました。「『われわれは、それをみたら信じるから。』また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。(15:32)」さて、ルカは後で、二人のうちの一人の心が変わったことを伝えています。最初の一人は嘲り続けましたが、この男は、「『おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰をうけているではないか。われわれは、自分のしたことの報いをうけているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。』そして言った。『イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。』(ルカ23:40-42)」みなさん、この話を覚えていらっしゃるでしょう。それについては、次にルカの福音書に入ったときに、やることにしましょう。  「さて、第六時」、あるいは、正午「になったとき、全地が暗くなって、第九時まで続いた。(15:33 新改訳脚注参照) 」さて、これは日食として説明をつけることはできません。過越が満月にあたるので、満月の時に完全な日食になるのは不可能です。よくご存知のように、満月の時は、太陽が沈む時に満月が昇ってくるからです。完全な日食になるのは、月が太陽の前を通過する時に起こります。それがその時点で、地上に影と闇をつくります。一年のどの時かによって、完全に覆われることがあるのです。しかし、満月の時はそのようなことは不可能です。ですから、この暗闇の現象を日食とは何か別の方法で説明する必要があります。アモス書に、とても興味深い預言があります。8章9節です。「その日には、 −神である主の御告げ。− わたしは真昼に太陽を沈ませ、日盛りに地を暗くし、・・・」ですから、日盛りに(晴れた日に)地が暗くなったのです。「あなたがたの祭りを・・・」さて、これが起きたのは、過越の祭りの日でしたね。その祭りは、大いなる喜びの祭りでした。それは、神が父祖をエジプトでの奴隷から救ってくださったことを喜んだからでした。「あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたのすべての歌を哀歌に変え、すべての腰に荒布をまとわせ、・・・」荒布はふつう死の時にまといました。「その日を、ひとり子を失ったときの喪のようにし、・・・」私は、このことが非常に重要であると考えます。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。(ヨハネ3:16) 」「その終りを苦い日のようにする。(アモス8:10) 」すごいアモスの預言です。ここに、その成就がみられます。第六時あるいは正午から、イエスが息を引き取られた第九時まで、全地が暗闇で覆われました。3時間の暗闇があって第九時になりました。自然すらこの恐ろしい罪を見ようとしませんでした。イエス・キリストの死に、人間の罪が拡大され具現化されました。最初の罪は自殺(suicide)のようなものでした。それは、神がアダムに、「その木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創世2:17参照)」と言われたからです。自分で死刑宣告をすることとなる、と。ですから、食べることにより、アダムは自殺をしたのです。聖書に記述されている二番目の罪は、兄弟殺しの罪(fratricide)でした。それは、カインが兄弟のアベルを殺した時でした。今度は神殺し(deicide)の罪です。人間が神を殺そうと試みる罪です。さて、人間は、そのような試みをやめてはいません。現在でも依然として、神を殺そうとしている人がたくさんいます。それらの人々は、人が持つ神への信仰を抹殺しようとしているのです。彼らは、神に歯向かっています。神という考え、神概念を抹殺しようとしているのです。残念なことに、私たちの教育制度や司法制度の中で、彼らが突出した権力のある地位を得ているため、社会や国民生活から神を根絶しようとする彼らの試みはかなり効果的に行なわれています。彼らは、常に絶えず神を滅ぼそうとしています。ここでのイエスの十字架刑は、神を滅ぼそうとする試みでした。この試みは、現在も続いています。  「そして、第九時に、イエスは大声で、『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。』と叫ばれた。それは訳すと『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。』という意味である。(15:34)」これは、詩篇22篇1節の言葉であることがわかっています。ラビが教える時は、よく詩篇の1節を読みました。人々は詩篇に精通していたので、1節を読みさえすれば、その詩篇が人々の心に浸透しました。ひょっとすると、イエスは、弟子たちに、戻って詩篇22篇を読みなさいと注意を引いておられたのかもしれません。弟子たちが戻って詩篇22篇を読めば、何が起こっているのか理解できるのです。これは、預言の成就です。事態を掌握できなくなったのではないのです。神は依然として事態を掌握しておられます。私たちの人生における出来事において、事態の掌握ができなくなったと感じることが多いのですが、そうではないのです。神は事態を掌握しておられます。神は支配されています。弟子たちは、人間が神を支配することなど恐ろしいことだとおそらく感じていたでしょうが、家に戻り詩篇22篇を読んでいただけば、これが神がお決めになられたご計画の一部であることがわかります。これは、神がご自身の愛を世に示されるご計画でした。しかし、イエスの死によって、すべてに救いがもたらされるのでした。すべての人がイエスは主であると認める時が来ます。この詩篇の最後は、墓の中にいる者さえも、世界全体が、イエスを認めるとさえ綴っています。後にイザヤ書で預言され、パウロが語ったことは、「すべてが、ひざをかかめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(イザヤ45:23-24参照、ピリピ2:10-11)」です。ですから、これらはすべて神のご計画の一部なのです。家に戻ってお読みください。しかし解釈の際に、「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」そして、続けて「遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。わが神。私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。」とありますが、しかし、3節で捨てられた理由が言われています。「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」神の聖さのために、神が私たちみなの咎をイエスに課せられたときに、交わりを絶つ必要があったのです。その瞬間に、神はイエスにあなたの罪と私の罪と世界の罪を置かれました。イザヤが叫んだように、「私たちみなのとがを彼がになった。(イザヤ53:11参照)」のです。そして、彼は私たちの民の咎ために叫ばれ、彼は打たれました(イザヤ53:8参照) 。ですから、私たちの罪を負ってくださった時に、神が私たちの罪を彼の上に置かれたとき、イエスは罪の結果を苦死んでくださいました。それが、父から離れることでした。「神(訳者注:英語では主ではなく神となっている。) の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎があなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、・・・。(イザヤ59:1-2) 」神から引き離されること、それは常に罪の結果です。イエスが私たちの罪を負ってくださった時、イエスは父から引き離されました。このための叫びでした。何たる痛ましい叫びでしょうか。「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」イエスは弟子たちに、「あなたがたはみな私を見捨てます。それはあなたがたはみな、つまずくからです。あなたがたはみな私を見捨てるからです。(マルコ14:27参照)」と言われました。というのも、聖書が、「わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。(ゼカリヤ13:7参照)」と教えているからです。ですから、イエスは弟子たちがご自身を見捨てることをご存知で、予期しておられました。しかし、この時父がイエスをお見捨てになったということによってだけでも、イエスは、あなたを罪から贖う代価を支払ってくださったのです。ああ、イエスは何とすばらしい救い主なのでしょう。我がイエスは。イエスは何とすばらしい救い主なのでしょう。我が主イエスは。私が永遠に神から引き離されることがないために、その瞬間にイエスは、自ら進んで御父から引き離されてくださったのでした。これは、何とすばらしいことでしょうか。もう、私は神から引き離されることはありません。それは、イエスが私の罪を負ってくださり、私のために、神から引き離されてくださったからです。  「そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、『そら、エリヤを呼んでいる。』と言った。(15:35)」彼らはロ−マの兵士でした。彼らは、ヘブル語を知りませんでした。「エロイ、エロイ」が、「わが神、わが神。」であったことがわかりませんでした。彼らは、エリヤと聞こえたと思いました。それで、イエスがエリヤを呼んでいる、と思ったのです。もしかすると、兵士たちは、イエスが譫妄状態(delirium)に陥った、気がふれたと思った可能性もあります。すると、ひとりが走って行って、海面に酸いぶどう酒(訳者注:欽定訳では、vinegar 、「酢」となっている。) を含ませ、イエスの唇に近づけました。それで、詩篇69篇21節が成就しました。「私が渇いたときには酢を飲ませました。」むろん他の福音書は、この叫びとともに、イエスが、「わたしは渇く。(ヨハネ19:28)」と言われたと教えています。すると、ひとりが走って行って、海面に酸いぶどう酒を含ませ、イエスの唇に近づけましたが、他の人たちは、「いや、いや、待て。ひょっとすると、エリヤが来て、彼を助けるかもしれない。ひょっとすると、劇的なことが起こるかもしれない。」と言いました。「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。(15:37)」他の福音書は、何を叫ばれたのか教えています。イエスは、「完了した。(訳者注:ヨハネ19:30 It is finished. )」と叫ばれたのでした。ギリシャ語では、一言です。完了(finished)、テテレスタイ(tetelestai)です。人間の贖いは完了したのです。大声で、「完了した。」と。「イエスは・・・息を引き取られた。(15:37)」あるいは、他の福音書ですと、「霊をお渡しになった。(ヨハネ19:30)」、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。(ルカ23:46) 」となっています。  「神殿の幕が上から下までま真二つに裂けた。(15:38)」これは重要です。それを裂かれたのは神でした。他の福音書は、地震があったと教えています。地震で、実際岩が裂けました(マタイ27:51参照)。地震の時に、神殿の幕が、聖所と神の臨在のある至聖所を隔てていた重い重い幕が裂けたのでした。聖なる神の臨在される至聖所には、人が入ることが許されていませんでした。そこは、大祭司だけしか入ることができませんでした。しかも、それは一年に一日だけでした。しかも、たくさんの犠牲を捧げたあとでしか入ることができませんでした。そして、大祭司の足には、衣の縁についている鈴(出エジプト28:33-34参照) がちりんちりん鳴るのがやんだ時のために、ロ−プが縛られていました。鳴るのがやんだら、人々は、犠牲に何か不都合があって大祭司が死んだことがわかりました。それで、大祭司の足にはロ−プがつけられていて、人々はそれを引っ張ればよいようになっていました。人々は中に入って大祭司を連れ出すこともできませんでした。ですから、足にロ−プが縛られていたのでした。これでは、中に入るのが心細くなります。足にロ−プがつけられていて、万事うまくいきますように、という感じです。神の臨在されるところに入っていく時に、細部まできちんとやったかな(訳者注:英語の直訳だと、i にきちんと点をつけ、t に横線を引いたかな) 、と。すべて完璧かな、という感じです。普通の人は、そのようなことはできませんでした。人々のために祭司が入っていったのです。しかし、神は今や、全ての人が入ることができるようになった、とおっしゃっているのです。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16) 」ですから、今や私たちは、イエス・キリストを通して、神に近づくことができます。「神は唯一です。また神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(1テモテ2:5) 」、この方が、神のおられる所へつながる道を備えてくださいました。その道は、愛によってしるしがついていますが、この道が私たちは神のいらっしゃる家へ導いてくれます。ですから、私はここの箇所が好きです。神が裂いてくださって、「お入りなさい。」とおっしゃっているのです。道はできたのです。イエス・キリストをとおして、道が備えられました。あなたの罪は覆われただけではなく、今や罪は取り除かれたのです。旧約聖書では、罪を覆うための箱を造りましたが、今やイエス・キリストをとおして、罪は取り除かれたのです。ですから、イエスキリストをとおして来る者はすべて、御父に近づくことができるのです。  「イエスの正面に立っていた百人隊長は、・・・(15:39)」この百人隊長は、十字架刑のほぼ全容を見ていたのですが、「イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『この方はまことに神の子であった。』と言った。また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。(15:39-40)」ヨハネは、イエスの母のマリヤもいっしょに、マグダラのマリヤともう一人のマリヤ、これは小ヤコブとヨセの母のマリヤですが、それとサロメもいたと伝えています(ヨハネ19:25、マタイ27:55-56参照)。これら、イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たち、弟子たちといっしょに旅をし、食事の用意をしてきた女たちは、このグル−プとは切っても切り離せない一部となっていました。その女たちがそこに立って、見ていました。「イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上ってきた女たちがたくさんいた。(15:41)」ですから、かなりたくさんの女たちが立っていたのです。イエスの母のマリヤとマグダラのマリヤは、イエスが十字架から話をすることができるほど近くにいました。愛する弟子ヨハネも近くにいました。イエスがヨハネにお話になり、イエスの母の面倒をみることをヨハネにまかせたからです(ヨハネ19:26-27) 。それは、ヨハネの福音書に記録されていますが、それについてはそこを学ぶ時にやります。  「すっかり夕方になった。(15:42)」イエスは、午後3時ごろ死なれました。イエスは、午後6時までに葬られなければなりませんでした。その次の日が、安息日だったからです。それは祭りの大いなる日でした。種なしパンの祭りの第一日目で、それは安息日でした。また、それは聖なる日でした。この週には、安息日がだぶってありました。「その日は備えの日、・・・。」つまり、夕方6時までに、全ての備えをしていなければなりませんでした。その時に安息日が始まり、それ以降は何もすることができなかったからでした。ですから、夕方になっていました。「その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを」懇願した(craved)、あるいは、「願った(begged)。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。(15:42-43)」さて、ピラトは、イエスがすでに死んだことを知りませんでした。それで、イエスがもう死んだと聞いて驚きました。ピラトはそこにヨセフがおり、「もうイエスは死んだのか。」と驚きました。それで、ピラトは、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただしました。百人隊長が、「はい。実際、イエスはすでに死にました。」と確認すると、ピラトはイエスのからだをヨセフに与えました。「そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入り口には石をころがしかけておいた。(15:46)」それで、イザヤ書53章9節が成就されました。「彼は富む者とともに葬られた。」ですから、アリマタヤのヨセフが自分の墓にキリストを葬ったのです。今日は園の墓が、聖地において一番美しい場所の一つだと思います。そこが実際の墓だったかどうかは憶測の域ですが、その描写にあっている場所でその墓を見るのは、すばらしい体験です。たとえこの墓でなくても、ヨセフがイエスを葬むったのはそれに類似した墓であったに違いありません。岩を掘って造った墓です。むろんエルサレムには、そのような墓がたくさんあります。そしてその前には、石が転がしかけてあります。そのいくつかは王の墓です。そして、ダビデ王ホテル(King David Hotel)の近くには、ヘロデの墓と呼ばれている墓があります。これらの墓は岩を掘って造った墓です。「いったいなぜ、この人が、・・・」と言った人がいます。非常にお金がかかることで、金持ちだけが実際墓に埋葬されました。その他の人たちは、肉を食う棺である石棺(sarcophagus)に入れられました(訳者注:“sarcophagus"のもともとの意味は「肉食の」であり、この石が死体の肉を分解・吸収すると考えられたために棺石として利用されました)。金持ちだけが墓に埋葬されました。なぜこれだけ金を払ったのでしょうか。園に水をやるための貯水池が園の墓にあって、かなりの出費です。なぜ自分の墓のためにこれだけの準備をしたのに、なぜそれを他の人に与えてしまったのでしょうか。誰かが、「週末だけだったじゃないか。」と言いましたが・・・。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとはついて行った、と締めくくられています。彼らはついて行ったので、墓がどこにあったか知っていました。これで、イエスの復活である次の章のお膳立てができあがりました。