マルコの福音書9章(Mark9)(#8037)  ・・・聖書通読の学びを続けています。(訳者注:テ−プの頭が切れていて、部分的にしか聞き取れない。)  イエスはピリポ・カイザリヤ地方におられます。そこは、イスラエルの国の最北端にありました。ピリポ・カイザリヤは、ヘルモン山のちょうど山麓にありました。そこが、イエスが弟子たちに、「人々は、わたしをだれだと言っていますか。(8:27)」とお尋ねになり、弟子たちが人々が話している色々な意見を話した場所です。イエスは、「ではあなたがたは、わたしをだれだと言いますか。(8:29)」と言われました。ペテロは答えて言いました。「あなたは、生ける神の御子メシヤです。(マタイ16:16参照)」マルコの福音書8章31節には、「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」と書かれています。「しかもはっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。(8:32)」さて、イエスは、ご自分の死について話されたところでした。弟子たちが、イエスが御国を立てられるのを期待していたことを思い出していただけるでしょうか。弟子たちはイエスがメシヤであると確信していました。ユダヤ人の言い伝えによると、メシヤがこの地上で神の御国を立てられるはずなのです。メシヤは、権力と栄光を持って、地上を支配することになっていました。全世界が、メシヤの支配下に入ることになっていました。詩篇2篇には、「わたしに求めよ。わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。(詩篇2:8) 」と書かれています。旧約聖書全体が、メシヤに関する預言になっています。ですからペテロが、「あなたは、メシヤです。」と認めたとき、イエスはご自分の死について、三日の後によみがえることについて話し始められました。これは、メシヤの考えをめちゃくちゃにするものでした。弟子たちは、イエスのこのことばに身震いしたに違いありません。しかし、8章の最後の節の38節で、イエスはそのとき、「このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。」と言われました。ですから、イエスは再臨されることについてお話になっています。父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来られることをです。今回イエスは、死なれますが三日の後によみがえられます。しかし、イエスは聖なる御使いたちとともにまた来られます。それで、「イエスは彼らに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。(9:1) 」さて、このことは弟子たちの頭の中で謎となりました。死ぬことを語りながら、どうして御国と力について、来るべき御国と力について、話すことができるのだろうか。頭の中は完全に混乱していました。弟子たちは、これらのものをつなげて考えることができませんでした。面白いことがあります。弟子たちは、イエスが死なれてもなぜ御国に入ることができるのか完全に混乱していました。彼らにとっては謎でした。それなのに、考えてみてください。あの十字架上の強盗が、死につつあるイエスを見て、「イエスさま。あなたの御国のくらいにお着きになるときには、私を思い出してください。(ルカ32:42) 」と言いました。びっくりしますね。十字架上の強盗が、イエスご自身の弟子が把握できなかったことを、把握していたようです。つまり、イエスは、死を通しても御国にお入りになるのです。ここでイエスは、そのことを暗に言われています。ご自分の死についてお話になっていますが、今は、「ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」とおっしゃっているのです。  イエスはきっと、次に起こった事を言われてたのです。つまり、それは、イエスがペテロとヤコブ、ヨハネをヘルモン山の山頂に連れていかれ、そこでイエスが彼らの前で御姿が変わったことです。御姿が変わったという言葉は、変身したとか、体が変わったということです。それで、イエスは変身をされて、「その御衣は、雪のように非常に白く光った。(訳者注:9:2 欽定訳から訳出) 」その光りは、御子が栄光や力で光っているからで、その御衣は雪のように白かったのです。「地上のさらし屋では、とてもできないほどの白さであった。(9:2) 」さて、さらし屋は、当時の洗濯屋のようなものでした。当時、洗剤はありませんでした。服を洗濯するのに大抵アルカリ性物質を使いました。服を小川に入れて、子供を雇って、それを踏ませて汚れを出させ、それが小川に出ていきました。苛性物や様々なアルカリ性物質を使って、汚れを取り除き、それから日干しにしました。太陽でさらしました。当時も今ももちろん考えは同じですが、白い物を白く保つことでした。さらし屋、洗濯屋が上手かどうかは、どれだけ服を白くできるかでした。しかし、それは、さらし屋では、とてもできないほどの、あるいは漂白できないほどの白さでした。  「また、エリヤがモ−セとともに現れ(9:4) 」さて、エリヤは旧約聖書の人物で、預言者のかしらだった人でした。エリヤを考えることは、預言者たちのことを考えることです。モ−セは、律法をもたらした人です。旧約聖書は、基本的に律法と預言者とに分けられます。彼らは神の使いです。律法による神から人へのお告げと、律法を守るように勧めた預言者による神から人への御告げです。モ−セは、律法を代表する人でした。彼らはモ−セの言うことを聞きました。モ−セの言うことに耳を傾けました。モ−セの作品、ト−ラ−(律法)を読みました。それは、彼らにとって聖なるものでした。そして、モ−セを通して神のみことばを聞きました。人々は預言者のことを聞きました。そして、会堂で預言書を読みました。ですから、彼らはモ−セの言うことを聞き慣れていました。人々はエリヤの言うことを聞き慣れていました。さて、もう一つ別の福音書は、モ−セとエリヤがイエスといっしょにイエスが遂げようとしておられるご最後について語っていたと伝えています。(ルカ9:30-31参照) 彼らは、近くに迫る十字架刑とよみがえりについて話していました。それで、エリヤとモ−セが現れ、彼らはイエスと語り合っていました。  「すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。『先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、」天幕あるいは、「幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モ−セのために一つ、エリヤのために一つ。』実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖にうたれたのであった。(9:5-6) 」よくあることですね。どう言ったらよいかわからないので、何か言わないといけないと感じて言うと、何か愚かなことを言ってしまう。もし、どう言ったらよいかわからないのであれば、口を閉じて、何も言わない方がいいのです。もし何を言えばよいのかわからないのであれば。誰かがこんなことを言っていました。「黙っていて、あなたが愚かであると思わせておく方が、口を開いて、疑いがすべて取り除かれるよりよい。」それで、ペテロは、言うべきことがわからず、恐れていました。彼らにとって、恐ろしい体験だったのです。「幕屋を三つ造りましょう。ここにとどまっていましょう。丘を降りて行きたくありません。ここに、このすばらしい体験にとどまっていましょう。あなたの力と栄光を見る経験に。ここにとどまっていましょう。」と言いました。私たちは自分の心や人生に神からすばらしい啓示をいただくことがよくあります。この夏、若い人たちの多くが夏のキャンプで体験したような体験を持っています。家に帰りたくないと感じてしまうのです。ここにとどまっていたい。主が私と会って下さった、ここにとどまっていたい。御霊の促しを受けたこの場所にとどまっていたい。あるいは、神が心に触れて下さった場所にとどまっていたい。世的な世俗的なものに戻りたくない。ただ、ここにとどまっていたい、と。けれども、私たちが霊的に山頂にいて体験するものは、日々の体験に置き換えられてなければいけません。もし、みなさんの霊的体験が現実的に日々の生活に当てはめることができないなら、本当には何の価値もないのです。すばらしい霊的な体験でしょうが、それが目的ではありません。本当の目的は、それが日々の生活の中で、日々の行なっている事の中で、生かされることです。神のしてくださった御業、特別な神の御業が、普段の変わらない日々の場面で、適用されてゆくことです。  「そのとき雲がわき起こってその人々をおおい(9:7) 」さて、神の臨在はいつも、というか大体雲に象徴されていました。旧約聖書で、幕屋に降りて来た雲を覚えていらっしゃるでしょうか。それは、神の臨在を表していました。神殿を建てた時に、雲が神殿に降りて来ました。それは、神が人々の間におられたことを意味しました。そして、ラビは、メシヤが来られる時は、雲がメシヤを覆うと信じていました。これもまた、神が人々の間におられたことを象徴していました。それで、雲が降りて来て彼らをを覆って、「雲の中から、『これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。』という声がした。(9:7) 」彼らはモ−セの声を聞き、エリヤと預言者の声を聞きましたが、今度は神が、「彼の言うことを聞きなさい。」と言っておられます。ヘブル人への手紙1章には、「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終りの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、(ヘブル1:1-3)」栄光が輝き出でいる、などとあります。神は、「彼の言うことを聞きなさい。ここに啓示がある。」とおっしゃっています。神がどのような方が知りたいですか。神の特性や性質がどのようなものか知りたいですか。それなら、イエスを見ましょう。イエスのおっしゃることを聞きましょう。イエスは、神がご自身を人間に最終的に啓示された方です。イエスは言われました。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。(ヨハネ14:9) 」ですから、イエスは神の現れでした。イエス・キリストにあって、神がご自身を人間に最終的に啓示されました。この方にあって、神は私たちへとてつもない神の愛を現してくださいました。  「彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。(9:8) 」モ−セとエリヤは消え、雲も消え、イエスがそこに弟子たちとおられました。栄光にあふれた、すばらしい霊的な体験でした。しかし、彼らは山から降りて来ました。私たちは降りてこなければなりません。「さて、山を降りながら、イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた。(9:9) 」「まただ。死人の中からよみがえるとは、何のことだ。」と弟子たちは思いました。イエスは、ご自分が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と言われました。「そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留め、死人の中からよみがえると言われたことはどういう意味かを論じ合った。(9:10)」「何のことをおっしゃっているのだろう。イエスは、何を話し続けておられるのだろう。死とか、死人の中からよみがえるとか。イエスはご自分がメシヤだということをご存じないのだろうか。御国を立てられることになっていることを。」それで、「彼らはイエスに尋ねて言った。(9:11)」イエスは、死人の中からよみがえるとか、メシヤ関する質問のことを話されました。「彼らはイエスに尋ねて言った。『律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。』(9:11)」さて、マラキ書には、エリヤが来て、メシヤの道を備えて、「父の心を子に向けさせる(4:6)」と預言されています。実際、旧約聖書の最後の約束はマラキ書にありますが、それは、メシヤの来る前にエリヤが来るという約束でした。マラキ書4章の5節です。「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。(4:5-6) 」ですから、律法学者たちは、エリヤが来ると教えていました。ユダヤ人たちはエリヤが来ると信じていました。過越の祭の食事の時のテ−ブルにある空の椅子は、エリヤのためのものです。戸を開いたままにしておいて、通りまで出てエリヤが来ているかどうか探しに行きます。これは、ユダヤ人たちの過越の祭の食事のしきたりの一環となっています。ですから、マラキの預言の成就を期待していました。ですから、弟子たちは、「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っています」と言ったのです。  「イエスは言われた。『エリヤがまず来て、(9:12)」エリヤはまず来ます。「すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。』」とイエスは言われました。弟子たちはイエスの再臨を見ていたのでした。イエスが再臨される前に、エリヤは来ます。そして、ユダヤ人の間で霊的覚醒が起こります。黙示録11章だったと思いますが、イエスが二人の証人が来ることを話しておられます。その一人がエリヤであることは間違いありません。もう一人が誰かは、もちろん私たちは知りませんが、おそらく、いえ、おそらくではなくひょっとするとですが、ひょっとするとモ−セかもしれません。しかし、エリヤが、黙示録11章での二人の証人のうちの一人であることがわかっています。ですから、弟子たちはそのことが起こるのを見ていましたが、イエスは、こう言われます。「では、人の子」すなわちメシヤに「ついて、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。(9:12)」「彼はさげずまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるぼどさげすまれ、・・・しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。(イザヤ53:3、5-6) 」なぜ、メシヤについて、預言者が「日の目を見ない。人々からのけ者にされる。」と言ったのでしょうか。(訳者注:新改訳の12節の「どうしてなのですか」の部分は、欽定訳で“set at nought"となっている。これは、「日の目を見ない」という意味がある。)ですから、イエスは、全ての預言を成就するには二度来臨がなければならないことを指摘されているのです。まず、栄光と力によって来られて支配される前に、日の目を見ないことがなければならないのです。「イエスは言われた。『エリヤがまず来て、』」彼がまず来て、「『すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。しかし、あなたがたに告げます。エリヤはもう来たのです。そして人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にしたのです。』(9:12-13) 」ですから、イエスはバプテスマのヨハネのことを話しておられるのです。バプテスマのヨハネはエリヤの霊と力を持って来ました。それは、御使いガブリエルが、バプテスマのヨハネの父ゼカリヤが宮で奉仕していた時に言った言葉でした。ガブリエルは、年をとっているゼカリヤの妻エリザベツが男の子を生むので、その名をヨハネとつけるように、また、「彼はエリヤの霊と力で主の前ぶれをし、人々の心を立ち戻らせる。(ルカ1:13-17) 」と言いました。バプテスマのヨハネに関する預言は、エリヤの霊と力でした。ヨハネの福音書1章で、彼らはバプテスマのヨハネに、「あなたはエリヤですか。」と尋ねました。バプテスマのヨハネは、「そうではありません。」と言いました。「あなたはあの預言者ですか。」「そうではありません。」「あなたはだれですか。」バプテスマのヨハネは、「『主の道をまっすぐにせよ。』と荒野で叫んでいる者の声です。」と言いました。ですから、バプテスマのヨハネは、預言の完全な成就ではなかったのですが、エリヤの霊と力を持っている者でした。ですから、やや不可解なところがあります。つまり、まだエリヤは来ていないということです。その預言はまだ将来に起こることなのです。それをイエスは指摘されているのです。もし霊的に受け入れることができるのであれば、ヨハネがそうだったのです。彼は来たのです。彼は前ぶれをしたのです。しかし、人々は彼について書いてあるとおりのことをしたのです。  それで、彼らが丘を降りて来て、他の9人の弟子たちがいるところまで下ってきたとき、イエスが「見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた(訳者注:9:14 「論じ合って」の部分の英語は、 questioning で、「質問をしていた」になる。) 」そこのギリシャ語の言葉は、論じ合っていたです。そこは論争のまっ最中でした。「そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走りよって来て、あいさつをした。(9:15)」丘のふもとまで来ると、議論が起こっていました。律法学者たちが弟子たちに、ひどい企みを巡らしていました。「すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。『先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を引き裂きます。そしてかれはあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにとお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。(9:17-18) 」イエスは尋ねて言われた、というか、「イエスは答えて言われた。『ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。(9:19)」「不信仰な世だ。」とあります。律法学者たちがそこにいましたが、イエスを信じる信仰は全くありませんでした。この方の真理にわざと盲目になっていました。そこに弟子たちがいました。信仰は弱かったのですが、信じたいと願っていました。そしてこの父も、この時点では信仰がありませんでした。それは、弟子たちが自分の息子を助けることができなかったからでした。さて、この症状は、大発作(grand mal seizure)のように読めます。しかし、この子に起こっていたのは、大発作ではありませんでした。そのように言うのは、非常に残酷です。そう言うと、大発作が悪霊につかれた結果だと暗に主張することになるからです。そうではありません。誰でもてんかんのある人が、てんかんは悪魔の活動によって起きていると考えるのは、あまりにも残酷です。てんかんは、脳の中、脳波の問題によって起きるのです。ですから、純粋に身体的なことなので、この子が大発作を起こしていたと考えたり、言ったりするのは間違っています。この子は、おしでもあったことに注目して下さい。  しかし、悪霊、汚れた霊が、この子の体を所有し、その子を滅ぼそうとしていました。このため、その子の父は、この子をイエスの所に連れて来ました。「霊がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。イエスはその子の父親に尋ねられた。『この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。』父親は言った。『幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。』(9:20-22) 」イエスはサタンについて、「敵が来るのは盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。(ヨハネ10:10参照)」と言われました。罪は破壊的です。罪の結末は死です。罪は滅ぼします。このため神は罪に抵抗するようにお命じになったのです。罪は破壊的だからです。ここで、悪霊はサタンの目的を現しています。それは、人を滅ぼすことです。この子を溺れさせるために水の中に投げ込んだり、焼くため、焼却するために火の中に投げ込んだりして、滅ぼそうとしました。とても嘆かわしい、とても嘆かわしい光景です。子供は話すことができません。でも、その子は地面の上で、ころげ回り、口からあわを吹いていました。そして、その子の父親はイエスに、「もし、おできになるものなら、何でもしてください。」と懇願しました。弟子たちは、何もすることができなかったので、父親はイエスの能力にまでに疑問を抱いています。「もし、おできになるものなら」不思議なのは、弟子たちは悪霊を追い出す力を与えられて出て行って、悪霊を追い出したことがあり、戻ってきて、「あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。(ルカ10:17) 」という事を喜んだことがありました。けれども、ここに弟子たちに服従しない悪霊がいました。このため父親は、「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と疑っています。イエスは、それを逆にして言われました。「もし、あなたが信じることができるなら(訳者注:9:23日本語の聖書だと、「できるものなら、と言うのか。」とあるのですが、欽定訳は、 If thou canst believeとなっています。) 」と。父親はイエスに、「もし、おできになるものなら」と言っているのですが、イエスは、「もし、あなたができるなら、」と言われています。「もし、あなたが信じることができるなら、信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。「するとすぐに、その子の父は涙を流して叫んで言った。『主よ、信じます。』(訳者注:9:24 「涙を流して」と「主よ」は、欽定訳からの訳出) 」この父親は正直に、疑っていたことを認めています。「不信仰な私をお助けください。」主よ。そこにある疑っている部分を何とかして下さい。私は信じます。主よ。疑っている部分を助けて下さいと。  「イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、(9:25)」つまり群衆が群がりよってきたのです。このような事があると、大勢の人が引き寄せられます。ここには小さい男の子が地面を転げ回っていました。好奇心のために人々が走りよってきました。「イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。『おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。』(9:25)」さて、イエスは、悪霊が追い出されると、世界中を行きめぐって、住むことができるもう一つの体を捜すと教えられました。何も見つけることができないと、追い出された体に戻ってくることがよくあるのです。戻ってみると、掃除がされてきちんとかたづいていましたが、取り去られたものの代わりのものが入っていないと、悪霊は他に七つの霊を連れてきて、みなはいり来んでそこに住みつくと、その人の状態は、はじめよりもさらに悪くなります。(ルカ11:24-26参照)ですから、イエスは、悪霊に対し、出て行って、二度と入らないように命じておられるのです。神の御霊に支配され満たされるためではなく、ただ特権や利益の得るために主のもとに来る人がたくさんいます。この人たちが欲しいのは助けだけです。私には問題がある。解決が欲しい。私は困難を抱えている。回答が欲しい。自分の人生は明け渡したくない。自分の人生を主で満たしたくない。私はこの問題の助けが欲しいだけだ。それは、危険です。何かが出て行くのであれば、空の部分をそのままにしてはおけません。それを埋めないのであれば、それより悪いものが入ってきます。それで、この命令があります。「出て行って、二度と入らないように。」「するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、(9:26)」おそらく大きな痙攣が起こったのでしょう。そして、おしが、その子が叫び、それからその子は死人のように横たわりました。悪霊は出て行って、その子を気の抜けた状態にしました。その子は死人のように横たわっていました。このため、実際、「多くの人々は、『この子は死んでしまった。』と言った。(9:26)」  「しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。『どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。』すると、イエスは言われた。『この種のものは、祈りと断食によらなければ、何によっても追い出せるものではありません。』(訳者注:9:27-29 「断食」は、欽定訳の中にある。新改訳の脚注参照) 」弟子たちにはできませんでした。この子にとりついていた、ある特定の悪霊が、力の強い悪霊であったことは明かだったことに注目してください。悪霊には、いろいろな等級の力と権威、霊力、力などの位が有りました。彼らは、悪霊を追い出すことが何かは知っていました。しかし、ここには弟子たちがいくら努力して追い出そうとしてもそれに抵抗した悪霊がいました。弟子たちは、イエスが男の子を救い出されるのを見ると、「なぜ私たちにはできなかったのでしょうか。」と言いました。この子がイエスの所に連れてこられたとき、悪霊がその子を地面に倒したことに注目して下さい。そこで、ちょっとした見せつけをしました。その子は、あわを吹きながら、ころげ回りました。おそらく、人々がこの子を弟子たちの所に連れてきたときも、おそらく同じようなことが起こったのでしょう。悪霊は、自分自身を現しました。弟子たちが、その子を支配する悪霊の力に圧倒され恐ろしくなり、その子を救い出すイエスの力を見失った、という可能性があります。問題や状況に圧倒されて、遥かに偉大な神の力を見失うことがよくあります。私たちは、暗闇の力に圧倒されてはいけません。驚いたり、怖がったりしてはいけません。弟子たちは、このような状態にあって、この場合にあって、無力でした。けれども、イエスは、「この種のものは、祈りと断食が必要なのです。」と言われました。  「さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った(passed though)。イエスは、人に知られたくないと思われた。(9:30)」イエスは、いわば、ひそかに通り過ぎよう(pass through)とされたのです。一行は、イエスが十字架につけられる場所となるエルサレムに行こうとしていました。イエスは、十字架につけられることを弟子たちに話して、明かにされていました。ですから、イエスは、まもなく、すべての事を彼らにお任せになろうとしていたため、弟子たちと時を、内容のある時を過ごそうとされていました。このときイエスがどんなお気持ちだったか想像してみてください。彼らが、「わたしが御国の鍵を与えよう。わたしの務めをゆずる。」とイエスが言われた者たちなのですが、ここで、もうすでに失敗していたのです。弟子たちは、この悪霊の試みに失敗したのです。彼らがイエスがお任せになる者たちなのですから、イエスにはきっと、それにふさわしくなるように彼らを建て上げようと、切迫感があったのでしょう。それで、イエスは、人に知られたくないと思われて、通り過ぎようとされました。「それは、弟子たちを教えて、(9:31)」これが、イエスの目的でした。弟子たちに教えるために内容ある時を持つという目的です。「『人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる。』と話しておられたからである。(9:31)」再びこのことを話されたのです。さて、思い出してください、山をペテロ、ヨハネヤコブとともに降りながら、イエスは彼らに、「わたしがよみがえるまでは、だれにも話してはならない。」と話されましたが、彼らは、「どういう意味なのか。死人の中からよみがえるとは、何のことだろう。」と言っていました。それで、再びイエスは、弟子たちにご自分の死とよみがえりを話されているのです。「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。(9:32)」ペテロは、先に問題を起こしました。彼は、イエスがご自分の死を語られたのをいさめて、イエスは彼をしかられました。ですから、彼らは、イエスが話されていることの説明を求めるのを恐れていました。彼らは、まだ理解できていなかったのです。  「カペナウムに着いた。」イエスのガリラヤの本部のようなところですが、「イエスは、家に入った後、弟子たちに質問された。『道で何を論じ合っていたのですか。』(9:33)」彼らは、帰り道で、激しい議論をしていたのです。カイザリヤから帰る途中で、たぶん50マイル(80 km)から60マイ