Continued from Mark9 (#8037) ル(96 km)の距離ですが、弟子たちは論じ合っていました。それでイエスは、「何を論じ合っていたのですか。」と言われました。けれども、「彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかを論じ合っていたからである。(9:34)」想像してみてください。ここには、これから殺されて、よみがえると話されているイエスがいます。弟子たちは、理解できないで、論じ合っているのです。「だれが一番偉いか。俺が一番偉いのだ。お前じゃない。俺だ。イエスが俺をご覧になる見方をみててみろ、俺のことは信頼してくださっているが、お前のことは信頼しておられないぞ。」彼らはこのようなことを論じ合っていたのです。まだ、イエスが御国を即座にお立てになると考えていたのです。弟子たちは全然理解していませんでした。イエスが、エマオに行く二人の弟子に、なぜ次のように言われたのがよくわかります。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。(ルカ24:25) 」それで、「イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。『だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。』それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。」子どもを連れて来て、腕に抱き寄せられたのです。「『だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。』(9:35-37)」ですから、子どもに仕えるのはとても大切です。私たちは、大勢の人に仕えたいと思いますが、イエスは、子どもを連れて来て、子どもに仕えなさい、と言われます。幼子を、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れ、わたしを受け入れるならば、父を受け入れるのです、と言われます。弟子たちは、自分が偉くなることを求めていましたが、イエスは、偉くなる道は、仕える道です、と言われています。「御国で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者となりなさい。」イエスは、ご自分が引き渡される夜に、手ぬぐいを取って弟子たちの足を洗われました。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。」「はい、わかります。」「あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたは正しい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗うべきです。(ヨハネ13:12-14参照) 」奉仕をする立場です。仕え合うことです。御国で偉くなりたいと思う者は、仕える者になりなさい。  「ヨハネがイエスに言った。『先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。』(9:38)」ヨハネは、教派をつくろうとしています。悲しいですね。「私たちの仲間ではないので。」私は、ヨハネがイエスから「ヨハネ。お前は正しい。」と言われるのを期待していたのではないかと思うのです。彼らは、まだ御国で偉くなろうとしていました。「主よ、私たちはやめさせました。」というふうに。「しかし、イエスは言われた。『やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、奇蹟を行ないながら、すぐそのあとで、わたしを悪く言える者はないのです。(訳者注:9:39 欽定訳は、「奇蹟」となっている。新改訳の脚注参照) 」人々が、イエスの御名の力を発見していることに気づいてください。ここにそのひとりがいます。この人は、イエスに従っていませんでしたが、イエスの御名の力を発見して、この御名によって悪霊を追い出していたのです。「わたしの名を唱えて、奇蹟を行ないながら、すぐそのあとで、わたしを悪く言える者はないのです。わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。あなたがたがメシヤのものであるという名目で、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは、確かなことです。(訳者注:9:39-41 新改訳の脚注参照。欽定訳は直訳を採用しているが、チャックはキリストをメシヤと言い換えている。)」ですから再び、主の御名によって、水一杯を与えるという奉仕の考えです。  「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は・・・(9:42)」おそらく、あの子どもは、まだそこにいるのです。イエスは、まだ子どもを抱いておられます。私は、子どもがイエスに引き寄せられる様が好きです。イエスは子どもを抱いておられて、こう言われました。「わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、」ああ、何て子どもの信仰は、純粋で麗しいのでしょうか。私は、この子たちの祈りを聞くのが大好きです。この子たちにイエスのこと、神のことを話すことが大好きです。彼らの信仰は単純で麗しいのです。想像できるでしょうか。子どもがイエスを信じる信仰を滅ぼそうとする人の思いは、どれほど悪魔のような思いか。子どもの信仰を意図的に滅ぼそうとするなんて。イエスは、「むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」と言われました。イエスもちょっぴり法に反抗する精神をお持ちのようですね。なぜなら、石臼は、500ポンド(約227キロ)以上あるからです。子どもの信仰を滅ぼそうとするようなら、神の怒りを買うことを知りなさい、と。「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。(9:43)」これは、本当にとてつもなく難解な箇所です。イエスが文字通りに話されているのでなく、比喩的に話されていることを理解しなければいけません。イエスは、あなたの全生涯で最も大切なことは、天の御国に入ることであって、それより大切な事はありません、と言われているのです。これが、自分の全生涯の中で最も大事なのです。これは、あなたの手よりも大切です。目よりも大切です。世界中の何物よりも大切なのです。そのため、イエスは、語気の強い、驚愕するようなことばを使われているのです。  「もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身で永遠のいのちにはいるほうが、両手そろって地獄に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。(訳者注:9:43参照。チャックは、「いのち」を「永遠のいのち」に言い換えている。また、欽定訳では、「ゲヘナ」でなく、「地獄」となっている。) 」「地獄」は、ゲヘナのことです。ここではハデスではなく、ギリシャ語ではゲヘナとなっています。ゲヘナは、ヒノムの谷と関連しています(ヨシュア15:8、ネヘミヤ11:30参照)。これは、エルサレムの町の南側の谷です。これは、アハズ王がモレク神に偶像を立てた谷です。火を、たき火を焚いて、民はほしくなかった赤ん坊を連れて来て、モレクへのささげ物としてこのたき火の中に投げ入れます(2列王16:3参照) 。当時は堕胎をする手段がなかったので、モレクのために火の中に生きている赤ん坊を投げ入れました。現在はもっと洗練されて、赤ん坊がまだ胎の中にいる時にモレクにささげています。モレクは快楽の神です。後にマナセが現れてましたが、彼はアハズよりも悪を行ない、ヒノムの谷でこのおぞましい、恐ろしい慣例を続けていました(2列王21:6参照) 。それで、ヨシヤが王となったとき、彼は改革を、霊的な改革を始めました。彼はヒノムの谷を、町のごみ捨て場にしました(2列王23:13、14参照) 。さらに、ここを汚れた所としました。偽りの神が拝まれていたので、そこを汚したかったのです。それで、町のごみ捨て場にしたのです。町から出たごみは、すべてヒノムの谷に捨てられました。そこで、ごみが絶えず燃やされていました。ごみが絶えず燃やされていて、ヒノムの谷からは絶えず煙が立ち上ぼっていました。動物の腐った死体などで満ち、うじ虫がわいていました。非常に生々しい光景だったので、イエスは、神の愛を拒む者、イエス・キリストによる神の救いの招きを拒む者が罰を受ける場所を描写するために、これを用いられました。それで、「両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込む」とあります。黙示録14章は、「彼らの苦しみの煙は、永遠にまでも立ち上ぼる。(14:11) 」と言っています。  「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らのうじは、消えることがなく、火は消えることはありません。もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らのうじは、消えることがなく、火は消えることはありません。(訳者注:9:45-48参照。欽定訳には、45節にも「消える火の中に」がある。また、46節が存在し、48節の「彼らを食らううじ」は、直訳になっている。新改訳の脚注参照。) 」何年も前、私たちがオハイオ州のトリードにいた時のことですが、私はまだ大学にいました。私たちが会ったひとりの若い人が、私たちにいっしょにわなを使って猟をしようと言ってきました。お金を得るために、池にわなを仕掛けて、トリードにたくさんいるニオイネズミを捕まえていました。(訳者注:マスクラットとも言われる。ネズミ科の哺乳類。頭胴長22-36センチ、尾長19-28センチの大型のネズミ。体は水生に適し、後ろ足には硬毛の列があり、水かきの代わりをする。北アメリカ原産。)彼は、ニオイネズミを捕まえたら、もちろん皮を剥いで、それを板にのっけて、鋲で留めて、毛皮を売っていました。それで私たちは、いいよ、わなを仕掛けよう、と言いました。それで、彼は6時に私たちを車で向かえに来て、池に行ってわなを使った猟を始めました。一番初めのわなのところまで来ました。彼は私たちの前に行って茂みの中に入って、池の方に進んで行きました。彼がわなを見ると、「こりゃ、だめだ。」と言うのを聞きました。「どうしたんだい?」「このわなには、ニオイネズミの足があった。」彼はこう言いました。「もし、足がわなに引っ掛かったら、向きを変えて、自分の足を噛んで、わなに残すんだ。それで逃げてしまう。尻尾が引っ掛かった時も同じで、尻尾を噛んで、それを残してしまう。これで捕まえられないわけさ。」それで、「うーっ、自分の足を噛んじゃうの?」と思いますが、ニオイネズミはそんなに馬鹿じゃありません。3本の足で池を泳ぐ方が、4本の足で板に鋲で打たれるよりは良いことをわきまえています。イエスは、多かれ少なかれ、このことを言われているのです。もしあなたの生活の中に、神に完全におゆだねするのを妨げているものがあるならば、それを取り除きなさい、ということなのです。それは、痛いかも、大変な危険かもしれません。でも、最も大切なことは、私たちが天の御国に入ることなのです。天の御国に入るのを妨げるものは何でも、取り除かなければいけません。さて、教会史を通して、ある問題を解決しようと望んで、自分で自分の手足を切断した人たちがいました。オリゲネス(訳者注:アレクサンドリア生まれの神学者で、ギリシャ教父) は、情欲が大きな問題でした。それで、彼は去勢しました。けれども、後でこれでは解決にならないことがわかりました。まだ情欲があったのです。ですから、これは文字通りのことではなくて、霊的なことですが、とても大切なことです。イエスは、天の御国に入り、ゲヘナを免れることがどれだけ大事か強調されているのです。  「すべては、火によって、塩をつけられるのです。(9:49)」さて、旧約聖書では、全焼のささげ物は、ささげられる前に塩をつけられました。塩は、きよめの働きをするものとして用いられました。屠殺された肉は、冷蔵されないと、すぐに腐ります。腐敗を遅らせるために、肉にかなり塩をつけていたのです。塩は、表面のばい菌を殺したので、肉を保存しました。ですから、一番目に出てくる塩は、防腐剤と見なされました。火も、きよめの役割をするものです。溶けた金属の浮きかすを燃やします。ですから、イエスは、時には取らなければいけない大変な危険がある、神のきよめが私たちの生活の中で必要なことを話されています。それは、私たちの生活から、浮きかすを燃やすためです。「すべては、火によって、塩をつけられるのです」というのは、火できよめられることです。ペテロは、「愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、(1ペテロ4:12)」と言っています。彼は、「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちていく金よりも尊いのであって、(1ペテロ1:7) 」と言っています。ですから、火の目的は、金から浮きかすを燃やし尽くして、純粋な部分を残すことでした。従って、神が時に私たちにお与えになる燃えさかる火の試練は、浮きかすを取り除くため、生活の中の汚れた部分を取り除くためのものです。すべてのささげ物には、塩がつけられました。これは、旧約の律法でした。  さてイエスは、「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によってそれに味をつけるのですか。(訳者注:9:50と新改訳の脚注参照) 」と言われました。塩気のないオート・ミールより、まずい物はありません。何の味もなく、口当たりがよくないので、ちょっと食べられません。私は、オート麦で育ちました。子供の時のことを神に感謝します。しかし、当時もフィ−ティ−ズやコーン・フレーク(訳者注:どちらもケロッグのようなシリアルの類い。)はありました。今の子どもに食べさせている、くだらない物を見てください。これは悲劇です。今の子どもたちを、あわれに思います。箱詰めにされた手軽な砂糖づけのシリアルです。私は、全粒粉やオート麦、全穀で育ちました。けれども、私の母は、オート・ミールをつくる時、時々沸騰したお湯に塩を入れるのを忘れました。それは、本当に何の味もなく、蜂蜜を入れても、この無味乾燥した味を取り除くことはできませんでした。塩をつけないじゃがいももそうです。何の味もなく、口当たりがよくありません。ですから、「もし塩に塩けがなくなったら」とは、味づけのために塩を使わなかったら、ということです。ですから、こう言われました。「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。(9:50)」これは、いわば山上の垂訓からとられたものです。そこで、イエスは、「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にもたたず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5:13) 」と言われました。クリスチャンは、防腐剤としてきよめに用いられる塩のように、世界にきよめをもたらす影響力がなければいけません。 それだけでなく、クリスチャンは、生活に薬味と香味をもたらさなければいけません。クリスチャンの生活は、退屈で、面白みのないものではありません。すばらしく、ワクワクするものです。私たちは、人々に香味をもたらさなければなりません。ニュー・イングランドに行って木の葉の色が変わっているのを見ない限り、もう今年は遅過ぎることはわかってますが、私は、よく次のように言いました。「休暇をとる前に、必ずイエスを受け入れるようにしてください。キリストの目で見れば、これらのものがどれだけ美しいか驚くことでしょう。創造主に触れることができます。創造主と交わることができます。天は、さらに深みのある青に、地はさらに深い緑に見えるでしょう。すべての色に、キリストを受け入れていない目では見たことのない、何かが照り輝きます。」キリストを心に持っていなければ、その美しさを、創造の本当の美しさを見ることはありません。クリスチャンの生活は、沸き立つ喜びをもたらします。すべてに香味をもたらします。私は、イエスに属することができて、とてもうれしいです。