結婚における霊的戦い 

    -良い結婚を勝ち取るために-  

          Byビル・ストーンブレーカー

 

 

 

 

謝辞:私は若い牧師にはいつもこう言うことにしている。“副牧師を雇う前に、良い秘書を雇いなさい。副牧師何人分もの仕事をしてくれるだろうから。” 私の秘書であるジュディ・マークスはこのミニストリーおける貴重な存在である。数え切れないほどの時間と労力を彼女はこの本及び他の多数のプロジェクトのために費やしてくれた。彼女の“品質管理”と誠実な献身に対してここに謝意を表する。

 

次に私たちの本屋のマネージャーであり、(地球上で最も素晴らしい300平方フィートの本屋を作り上げた)テリ・ロニーのこのプロジェクトの終結にいたるまでの助力に感謝したい。

 

最後に私の息子であり、才能ある聖書教師であり、そして大きな助けでいてくれたビル・ジュニア(バド)の継続的な励ましと、“父さん、説教で言ってることを本にしなくては”という願いに感謝する。

 

 

目次

謝辞

序文

一章 戦場について知ること

二章 過去に対する勝利

三章 知られていない敵の道具

四章 良いけんか

五章 傷つけられた親しさ

六章 戦の計画のための祈り

七章 生けるみ言葉

結論

 

 

序文

数年前に私は、サタンの結婚における戦略というテーマで夫婦向けに土曜の聖書学校を教える必要を強く感じました。私のこの感覚は正しいものでした。出席しているカップルの多数が重度の霊的戦いを結婚生活において経験しており、彼らの葛藤と対処するための何かをとても必要としていたのです。

 

この本を書くにあたっての私の目的は、あなたの結婚のためにあなたと一緒に戦うことにあります。私の妻のダニータと私があなたに言えることは、私たち自身も結婚生活のなかで非常な困難と欲求不満を経験してきているということです。私たちがこれまでを生き抜き、今あなたにお話しすることができるのは神様の恵みによるものです。結婚におけるサタンの攻撃に対して弱い部分を識別する方法、そして幸せな結婚を勝ち取るための戦いにおいて敵を打ち破るための方法をこの本で述べたいと思います。

 

どういった部分に本当の葛藤が存在するのか、神様があなたに示してくださるように私は祈ります。それらは常に明白といったようなものではなく、また見えないかもしれませんし、予測できないことも多々あります。私個人の場合、一つの大きな盲点は自分の問題を自分が知っていると決めかかっていたことにありました。箴言の1310節はこう言っています。“たかぶりはただ争いを生じる” 敵の戦略は、自分の推定していることは正しいと私たち自身に信じこませると同時に嘘を信じ込ませるというものです。

 

この本では敵が結婚における調和を乱し、分裂をもたらし、そして可能ならば離婚にまで至らしめようとする、そのために使っている多くの領域を一緒に見ていきます。主にあって敵に立ち向かい悪魔の策略を打ち破るための方法についても一緒に学んでいきたいと思います。また、破綻から危機一髪で結婚を建て直した証も読んでいきたいと思います。“しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。” (ローマ人への手紙837節)

 

 

第一章

戦場を知る

-警戒するものは武装する [1] べきである-

 

ナディアとピーター

彼はハンサムな作曲家でした。彼女は莫大な遺産を相続した女性でした。お互いを愛し合っていました。二人が一つとなることによってそれまで世界が聞いたこともなかったような熱情的な音楽が生み出されました。彼女の名はナデズダ(ナディア)・ヴォン・メック、彼の名はピーター・イリッチ・チャイコフスキーといいました。

 

ナディアはモスクワで最も裕福な女性でした。けれども、彼女の莫大な富は、彼女の夫の死ということに関してはほとんど無力でした。それで、彼女は多数の召使や侍従たちとともに彼女の巨大な邸宅に隠棲してしまいました。世界はドアの一歩外に存在していたのに、彼女はひどく孤独でした。しかし、彼女の邸宅にはピアノがありました。そして彼女は優れたピアニストでした。それを演奏することによって彼女は傷の癒しをうけました。旋律は彼女の憂鬱を表す手段となりました。彼女は自分のために自分の好きな音楽を演奏したのでした。

 

その頃、モスクワにはチャイコフスキーという名の36歳の作曲家がいました。彼は知らなかったのですが、彼の音楽は一人の未亡人に強く語りかけるものでした。それはまるで彼が彼女の隠された熱望を旋律とハーモニーの網に織り込んでいったかのようでした。彼もまたこの女性が彼の作る音楽に対する熱望から彼の知り合いを通して彼について詳しく知るようになっていたことは知りませんでした。ロマン期もその頂点にさしかかろうというころ、ナディアはピーターの音楽と恋に落ち、やがては彼自身と恋に落ちていったのでした。

 

ついに彼女は勇気を奮い立たせ、自身を彼に紹介しました。彼らの関係は非常にかしこまった始まりかたをしました。“閣下”“奥様”といった呼び方が彼らの挨拶に使われました。ナディアはいくつもの音楽を注文し、ピーターのパトロン、助言者、そして時には彼の親友でありインスピレーションとなったのでした。

 

14年もの間彼らは孤独な世界で互いに愛を求め合い、喜びを分かち合い、そして悲しみの時には慰めあい続けました。14年間のあいだ、彼の輝くような情熱的な音楽は彼女のために作曲され続けました。そしてこの事ゆえに世界は永遠に彼女に感謝すべきなのです。ピーターにとってナディアは自由そのものであり、時にはナディアだけが彼と狂気とを隔てる存在だったのです。

 

しかしある時別れはきました。関係を終えようとしたのはナディアでした。誰もそれがなぜなのかわかりません。けれども二人がその後長く生きることはありませんでした。ナディアの健康は次第に衰えていきました。ピーターは彼女の名前を口にしながら死んでいきました。しかし彼らとともに消えなかった秘密は彼らの間に交わされた書簡という形で残りました。実際のところこれらの書簡は私たちが彼らについて知りうること全てと、彼らがお互いについて知りえたこと全てを含んでいるのです。ピーターとナディアにとって、音楽をめぐる張り詰めたまでのこの恋愛は 孤独な相続人の作曲家に対する愛と作曲家の彼女への愛と- 距離を隔てたものだったのです。美しい幻想を壊してしまうことを恐れたナディアとピーターは彼らの恋愛を手紙に閉じ込めた続けたのでした。14年間の間、彼らは一度も会うことはありませんでした。

 

現実の世界

ナディアとピーターのように、私の妻のダニータと私もモデルになるような関係を持てたかも知れません(私たちが手紙だけによる関係を持ったらの話ですが)。けれども現実の世界ではそういうわけにはいきません。もし結婚が紙切れとインクだけによるものだったとしたら、問題は起きないでしょう。夫婦ともに最善の振る舞いをとりつづけ、相手に向かって不機嫌になったり失礼なことをしたり、ということもないでしょう。けれども現実はどちらかというと、以下の質問にこう答えたある既婚男性のようなものなのです。“朝起きるとき、不機嫌な???[2]

 

結婚における難関は、小さなことで互いに離れ離れになってしまわないということなのです。ソロモンはそれを“ぶどう畑にいる子狐”と呼びました。“私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や子狐を捕らえておくれ。(雅歌215節)”これは生涯を共にすごすカップル誰にでもあてはまることなのです。

 

時々私は人がこういうのを耳にします。“私たちは結婚してから一度も議論したことがないんだ。”そして私はこう考えます。“お互いが見えているんだろうか?話をするんだろうか?あなたたち、生きてるんですか?”これはダニータと私にはありえないことでした。私たち両方が、いわば“不一致クラブの創立メンバー”でした。私たちはお互いの強情な性格や意見を乗り越えて一致にいたる方法を学んでこなければなりませんでした。

 

人間の性質について明晰な洞察力をもっていた使徒パウロは、結婚についてこう言いました。“ ただその人々は、その身に苦難を招くでしょう。・・・結婚した男は、どうしたら妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、・・・結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心をくばります。”(第一コリント7:2833-34

 

健全な結婚においても、困難なときと順調なときの両方が存在します。あなたは困難にどう対処するでしょうか?結婚が分裂してしまわないように何ができるでしょうか?専門家は2つの結婚のうち1つは離婚で終わると述べています。これは結婚の成功率がコインの裏表程度の確立でしかないということなのです。数値はあなたの味方ではありません。けれども“神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。”(ローマ9:31)なのです。

 

敵の計略

“盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊が命を得、またそれを豊かに持つためです。”(ヨハネ10:10

 

悪魔はあなたの結婚を嫌い、それを滅ぼすために出来ることは全部やろうとしています。結婚が破綻に終わるとき、私はこういう言い訳をよく聞きます。“私たちはお互いに不適合なんだ”とか“彼女への愛を失い、他の人と恋に落ちてしまった”とか“こういう関係は不似合いなんだ”とか“人生の方向性を変えたから”など、数を上げればきりがありません。結婚における最大の失敗は“神がつなぎ合わせたもの(マタイ19:6)”を滅ぼそうとする目に見えない霊的な力に気づかないことにあるのです。

 

空中の権威の王子であるサタンと光と命の主であるイエス・キリストとの戦いは熾烈なものです。イエスは私たちを救うために十字架上で死に、よみがえってくださいました。イエスを信じるとき私たちは精霊によって新しく生まれるのです。人が新生したら、その人はキリストの体である教会に配置されます。このため、サタンからの攻撃は結婚に対するものだけではなく、結婚した夫婦が属する教会にも向けられているのです。

 

結婚はキリストと教会との関係の縮図です。神様は二つの組織だけをこの世で定められました。結婚と教会です。両者はエペソ人への手紙531-32節の中でこのように例えられています。“それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。この奥義は偉大です。私はキリストと教会とをさして言っているのです。”聖書が“ハデスの門もそれ(教会)には打ち勝てません。(マタイ16:18)”と言う様に、悪魔は両者のうち弱い方、結婚を狙うのです。

 

戦闘に向けて準備をしてください。“警戒するものは武装するべき”なのです。敵について知らなければなりません。結婚における衝突の背後に潜むものは、取るに足らないような不一致を一緒に生活することを不可能にするような問題であるかのように膨らませて見せることのできる残忍な敵です。悪魔は混乱・困惑、そして喧嘩を喜ぶのです。

 

私の結婚生活を思い返すとき、一つのばかげた場面が脳裏をよぎります。ダニータと私は離婚法廷に立っており、裁判官がこう聞いています。“ここにいる理由はなんですか?”私たちはこう答えます。“豚の骨なんです、裁判長。”そして私たちは豚の骨にからむ事件について話し始めるのです。それは敵がどのように些細な問題を大きなものに変化させたかという話です。以下が実際に起こったことです。

 

ある日私たちは家周りと庭を掃除していました。その日はたまたまダニータが草刈機を動かしていました。彼女が外にいる間、私はキッチンを通りがかり、そして部屋の片隅の器に入っている豚の骨を見つけました。やるじゃないか、私はこう思いました。過去何ヶ月も彼女は残り物の豚の骨を集めて凍らせて、犬のためにとっていたんだ。ですから私は乾燥したドッグフードを犬のえさ皿に入れ、そしてその豚の骨を混ぜ、水を入れ替えたのでした。私が器を片手に庭に通じるドアから外に出たとき、ダニータがそれを見てがこう叫びました。“何をやってるの?その骨は今日のスパゲッティ・ソースのためにずっと取っておいたものなのよ!”私は笑いました。そして彼女は嵐のように草刈機へと戻りました。

 

私にとってそれは単純な間違いで、おかしな話でした。けれども彼女にとってはそれは非常に真剣な問題だったのです。問題?第一にその骨を犬のえさにしてしまう前に私はこう尋ねませんでした。“ねぇ、この骨は何のためなの?”第二に彼女は草を刈っていたとに、私は手伝っていませんでした!私は彼女が私たちの強力草刈機を使って草を刈ることを好きでやっているんだと思っていたのですが、現実には彼女は私自身が草を刈るのを別の日に先送りしてしまったことに失望してしていまったのです。第三に、彼女が冷凍して保存していたあの骨は、彼女にとって銀行預金のようなものでした。時間はかかりましたが、ついに彼女はスパゲッティのソースに必要な分を集めきったのです。私の最後の間違いは、彼女をフルに回転している草刈機まで追いかけていったことでした。状況を楽しんでいる自分を抑えきれず、彼女にこう聞いてしまったのです。“あの骨洗ってほしい?”彼女はにらみ返してこう言いました。“自分で考えなさいよ。”

 

私は家に戻り、瞬間だけ本当にその骨を洗うことを検討しました。けれども結局はやめておくことを決めました。代わりに、夕食のスパゲッティの重要な部分を占めるはずだったその骨を犬に食わせてしまったのです。

 

後になって私たちが、私たちの上に起こったことについて話したとき、私は笑いをこらえられず、時々忍び笑いをもらしてしまいました。ダニータが私の無神経な振る舞いに傷つきを隠せなかったにもかかわらずです。私がにたにた笑うたびに、彼女のストレスは増大していくのでした。

 

私はこう言いました。“ねぇ、もう少し時が過ぎたら、僕たち二人ともこのことを思い出して笑っちゃうと思うよ。”

 

彼女の機嫌はさらに悪くなりました。最後には私も彼女と同じくらい苛立ちを覚えるようになり、状況はエスカレートするばかりでした。“子狐がぶどう園を荒らす”のです。豚の骨が理由で離婚するなんて信じられますか?人はそれを“性格の不一致”とでも呼ぶのでしょうか?

 

心理カウンセラー達は人間関係において争いがつきものな理由として、あたりまえなことを挙げます。(片方が)放ったらかしにされていること、コミュニケーションの問題、無責任さなどです。建築家であり、Reality Therapyの著者でもあるウィリアム・グラッサー[3]は、“根本的な(特に愛情や自己価値)必要を満たされていない人は自分の周囲の現実を否定し、無責任な行動をとる。これはその人が過去を通して直視を避け続けてきた現実から逃避するための手段である。”と分析しました。

 

聖書はそういった表面的な見方よりも、もっと根本的な原因が結婚の不調和や離婚にはあるとします。サタンの盗み、殺し、滅ぼすための戦略がそれです。激しい不和をくぐり抜けてきた夫婦は、後になって悪魔がいかに現実を歪め、争いを引き起こし、混乱を作り出していたかを知ることができます。悪魔は非常に小さなことを、とても大きなことであるかのように見せることができるのです。[4] 

 

創世記第三章で蛇がイブに話しかけたとき、イブは知らないうちに歪められた現実の犠牲になってしまいました。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。(第5節)サタンは、神様がイブを隠された宝から遠ざけようとしておられるかのように話を作り替えました。自分の良心に背き、神様に逆らうことによってのみイブはその宝を得られるのです。“結果がよければ手段は問題ではない、実を食べることで得られる喜びは神様からの命令を破るのに値することだ。”-悪魔はイブにそう信じ込ませました。けれどもイブは“死ぬほど”間違っていました。神様の良い目的を、悪魔は現実を歪めることで悪いものであるかのように見せかけたのです。

 

結果として死という別離がやってきました。そしてその後には闘争が続いたのです。かつては調和に満たされ、愛に満ち、よいものであった関係は今や敵意と非難と苦々しさとにとって代わられてしまいました。神様が彼らに“あなたがたは私が食べてはならないと命じておいたその木からとって食べたのか?”と言われたとき、アダムは“あなたがくださったこの女が私に食べさせたのです”と返答しました。助け手としてのイヴが今やアダムのための生贄になってしまったのです。そして争いがエデンの園に入り込みました。

 

神様の御言葉が無視され、カップルの片方あるいは両者が自分勝手な道を歩み始めるとき、混乱が彼らの関係に浸透し始めます。イヴが罪を犯した後、アダムは彼女にすすめられて禁じられた実を食べてしまいました。彼がイヴに対する愛と彼女を誘惑から守りきれなかった責任感からそうしたということは言えるかも知れませんが、結果としてそれは彼を神様との親しい関係から引き離してしまうことになりました。“ふたりの者は、仲がよくないのに、いっしょに歩くだろうか。”(アモス3:3)“神は混乱の神ではない”(第一コリント14:33)私たちが神様の御言葉をないがしろにしようとする敵からの誘惑に負けるとき、混乱が私たちの間に入り込むのです。

 

妻ダニータと私たちが結婚して30年以上がたちます。私も彼女も結婚から抜け出したいと思ったことが何度かありました。けれども今日私たちは今までにましてお互いを愛しあっており、神様が私たちの人生において為してくださったことを他の何とも交換したいとは思いません。困難を感じていたあの何年かの間、私は彼女が問題の原因だと考えていました。けれども彼女にとっては私が原因だったのです。喧嘩を経て、“埃がおさまる”ごとに私たちは悪魔がいかに今は思い出すこともできないような小さなことを用いて、私たちのお互いへの愛情を不明瞭なものにしようとしてきたかということに気づくようになりました。今は悪魔のやり方というものについて、私たちは経験をつんでいると言えるかも知れません。悪魔がいかに小さなものを、克服不可能なほど大きく見せかけて、私たちが離婚する理由を与えようとしているか今は見えるようになりました。

 

今あなたも大変なプレッシャーをあなたの伴侶との関係において感じているかもしれません。物事は忍耐の限界を超えているように見え、もうあきらめたいと思っているかもしれません。でも待ってください!プレッシャーの本当の原因について考えてみたことがあるでしょうか?それは物理的な現実を超えたものなのです。私たちが本当の戦場はどこなのか知り、誰が本当の敵なのか -悪魔なのですが-理解するまでは、私たちを分かとうとする本当の問題と向き合うことも、悪魔のやり方から自由になることもできないのです。

 

本当の戦い

統計は二回目の結婚が離婚に終わる可能性が一回目の結婚における離婚の可能性よりも高いことを示しています。悪魔が問題を抱えている夫婦に向かってこうささやいているのを想像してみてください。“次はきっとうまくいくさ。ほら、その間抜けなんか放りだして、次に進もうよ。”

 

全ての夫婦が困難なときを経験しますし、調和を達成するためになんらかの調整をおこなわなければなりません。サタンは私たちの目を根本的な問題からそらす為に、貴方が信用できる異性の同僚のようなごまかしを私たちの人生に送り込もうとします。同情にあふれるその同僚が貴方の話を聞いてくれることをえさにしてサタンはあなたという犠牲者を釣ろうとしているのです。その人はとても理解に満ち溢れていて親切です。そしてやがてあなたは、この人こそが私のために時間をとってくれて私の思いに耳を傾けてくれる人なんだと思うようになります。そしてそれは“私の伴侶がこの人くらい物分りがよくて親切だったらいいのに”という比較につながっていくのです。

 

突然戦場は場所を変えます。もはや問題は結婚における困難の調整といったものではなく、憐れみぶかい、けれどもあなたの伴侶ではないその人との感情のもつれに変化しているのです。あなたは自分の伴侶を捨てて、この新しい素敵な関係に身を投じることを考え始めます。あなたが自分のことを気にかけてくれ、完全に理解してくれると考えるその人と“いつまでも幸せに暮らす”ことを思い浮かべるようになるのです。

 

けれども現実は、サタンが釣りに出かけそしてあなたが釣られてしまった、という状態なのです。統計によると二度目の結婚の60%が離婚に終わるとあります。なぜでしょうか?それは、サタンがずる賢く作り上げた幻想が、現実によって閉じられてしまったからなのです。汚れたお皿を洗ったり、仕事に追われたり、そして請求書を支払ったりする日常生活に身をおくようになると、多くのものを約束してくれていたかに見えたその関係も、実はあなたが捨て去った過去の関係となんら変わりはないということに気づくのです。過去と同様あなたは自己中心的な人間の性質と人間関係における問題と向き合い続けなければならないのです。

 

これがサタンの手口です。サタンは理想のイメージを描きあげます。伴侶ではないその人といれば、人生は完全になる - そしてどういうわけかあなたはそれを信じてしまうのです。偽りは、あなたが結婚に関して真実であると知っていることや神様の目に正しいと見えることを非現実的な幻想を追い求めるために捨て去ることをよしとします。けれども、じっさいのところそれは妥協と偽りでしかないのです。

 

アン・ランダーズへの一通の手紙が、伴侶を捨て去り偽りの愛を追い求めた結果の感情の余波についてよく説明していると思います。この人はこう書きます。

 

“親愛なるアン。私のことをお話したいと思います。たくさんの人が私がやったように人生を歩もうとしているのを知っているからです。時々人は結婚においても孤独になったり、愛されていないと感じたりします。23年結婚していてもそういうことはあるのです。人生はこんなものではないはずだ、そう考えて、自分のことを幸せにしてくれるその人を見つけようとします。やがて彼こそが私の捜し求めていた人だ、そう言える男性に出会います。そして23年寄り添った自分のそれまでの伴侶に別れを告げ、結婚していたときにできた友達を捨てて、荷物をまとめて出て行くのです。子供たちには自分と一緒に来るか父親と一緒にいるか選択させます。最初のごく数年の間は人生はとても輝いているかに見えますが、その後空っぽの頭に電灯がともります。自分が昔過ごしていたのと変わらない生活を今していることに気づくのです。違いはひとつ、友を失い、子供たちの尊敬を失い、全てを23年間わかちあった最大の親友を失っていることなのです。そして、彼がそばにいてくれたらと思います。愛はいきなり起こるのではなく、何年もかけて育むものなんだということに気づきます。けれども自分のやったことをやり直すことはできません。仕方なくうつろな心を抱えながら孤独で愛のない人生で満足しなければなりません。アン、他の人が真に大事なことをあきらめてしまうことがないように、私の手紙をコピーしてほしいと思います。彼らに教えてあげてください。人はそれがどれだけ大事なものなのか、それを捨て去らないと気づかないのだと。”フィラデルフィアの憂鬱な女性より。

 

非常に心の痛む話です。これまでこのような過ちを犯すことのなかった人 -もしくは再び犯したくない人― は“警戒するものは武装するべきである”ということを認識する必要があるのです。戦場を理解してください。悪魔は偽りのプロなのです。悪魔は人の人生に痛みと悲劇をもたらすために、本来そうではない姿に物事を変えて見せるのです。

 

悪魔がいかに巧妙に物事を偽装するかについてのおかしな話があります。もちろんサタンの策略から来る最終的な結果というのは決しておかしなものではありません。けれどもこの話はある意味で非常に的をえていると思います。

 

非常に成功していた法廷弁護士がある日心臓発作で亡くなりました。彼の魂は天国へとのぼり、そこで彼は御使いガブリエルに会い、こう言われました。“ここに慣れてしまう前に言っておきたいのだが、少し問題があるのだよ。弁護士がここまで来るっていうのは前例のないケースでな、私たちはお前についてどうするべきかはっきり決められずにいるのだ。”

 

男はこう返事しました。“天国に入れてくださいよ。”

 

“そうはいかないんだ。私はお前を一日ずつ地獄と天国の両方で過ごさせるように命令を受けておる。その後で、お前はどこで永遠を過ごすか決めるがよい。”

 

男はこう言いました。“でも、天国にいたいんですけれど。”

 

“悪いが”ガブリエルは言いました。“決まりは決まりだからな。”

 

こういうわけで、彼はエレベーターに乗せられ下の方へ下の方へと地獄に向かって降りていったのでした。

 

ドアが開き、彼をそこで待っていたのはよく整えられたゴルフ場の芝生でした。壮大なカントリークラブが目の前にあり、彼の友人や同僚たちがよく仕立てられた服に身を包んで立っていました。彼らはこの新人に駆け寄り、彼を抱きしめ、背中をポンとたたきながら、昔の思い出話をはじめました。

 

彼らはゴルフを数ラウンドプレーし、ステーキとロブスターの夕食をとりました。サタン自身が宴会の幹事をつとめました。彼は暖かく礼儀正しく、個人的にこのゲストを他の人に紹介しました。彼らはその後一晩中をダンスや笑い話をしながらすごしました。そして突然のようにそこを去る時間がやってきました。全員が涙を流してさようならを彼にいいました。彼がそこに残ってくれたらと願いながら。

 

彼はエレベーターに乗り、今度は上へ上へと上がっていきました。今度は天国です。ガブリエルが彼に会って嬉しそうに挨拶しました。“今度は天国での一日だよ。”弁護士は天国でも素晴らしいときを過ごしました。そして、最後に質問が突きつけられたのです。“天国と地獄の両方で一日を過ごしたわけだが、永遠に住む場所としてどちらを選ぶかね?”

 

弁護士は一瞬沈黙して、そしてこう言いました。“実はね、天国は素晴らしいところだっていつも聞かされていたんですよ。でも誤解しないでくださいね。実際ホントに言われていたとおりの素晴らしい場所でした。けれでも、地獄がどれだけ恐ろしい場所かっていうことも私は聞かされていたんですけど、実際のところ地獄はまったくそれとは正反対の場所でした。私の友達みんながそこにいてとても素晴らしい時間をすごすことができたんです。自分がこんなことを言うなんて思っても見なかったんですけど、でも地獄に行きたいんです。”

 

ガブリエルは困惑して、彼を見て言いました。“本当だな?一度エレベーターに乗ったら、それで終わりなのだよ。今回は片道切符だよ。”

 

弁護士はこう言いました。“確かです。”

 

彼はエレベーターに乗せられ、地獄に向けて再び下へ下へと下っていきました。

ドアが開いて彼が目にしたのは、今度はあたり一面拒否感と汚物とで覆われた荒地でした。後ろの方から恐ろしい嘆きの声が聞こえてき、やげて息の詰まるような熱も感じるようになりました。そして汚い服に身を包み、ごみを拾い上げては袋に詰めている彼の友人たちを目にしました。

 

悪魔が彼に挨拶しました。彼は大声でこう叫びました。“昨日ここにいたときはすごく綺麗だったのに。ゴルフ場に、カントリークラブ。そして友人たちは楽しそうでいい身なりをしていた。ステーキとロブスターを食べて一晩中笑って踊ってすごしたのに。何がおこったんだ?これじゃゴミ捨て場じゃないか。友人たちもすごく惨めそうだ!”

 

悪魔は尊大そうに彼を見てあざ笑うようにこう言いました。“昨日はお前をスカウトしてたんだ。今日からはお前は社員なんだよ。”

 

主と、私たちが真実だと知っている全ての御言葉と、そして主の計画を、敵とその嘘を信じて離れ去るとき、それはいつも失望に終わるのです。サタンは、結婚した相手を離れて自分をとても幸せにしてくれるその人と一緒になることを私たちに説得しようとします。

 

今の時代には新しいタイプの主婦や漁色家がいます。彼らは家にいながらにして、孤独で退屈な恋愛遊戯に手を出すのです。これを“ネット上の不貞”と呼びます。“オンラインでの不品行は日増しに増加しています。それについて本を書けるほどなのです。”と、人間関係の専門家で著者でもあるペギー・ボーガンは言います。“実際、こういった人たちは実際に会ったこともない人のために自分の伴侶と別れるような危険を選択することで知られています。”

 

ワシントンにいる離婚専門の弁護士であるサンフォード・アインはこういいます。“しばしば、インターネットでの出会いは離婚に終わってしまいます。お互いの浮気に耐えられないカップルは、ほとんど一緒に関係を続けることはできません。”

 

心理学者である、フロリダのデビー・レイトントールはこう述べます。“インターネットは人が出会い、不品行にいたる最も一般的な手段の一つになりつつあります。”彼女によると

“人が彼らのインターネット上の体験について私に話してくれるとき、彼らはこういいます。”恋に落ちているんです。彼は私のソウル・メイトです。すごいんです!“ 彼らは私には実際に人と親密になることでしか体験できないはずの情熱を語っているのです。ただ彼らの場合はそれはお互いにあったり触れたりすることのないネット上の話なのですが。彼らは立派な大人たちです。結婚していて、子供もおり、責任ある仕事にも就いています。けれども彼らはファンタジーとして始まった関係に人生を左右させていくのです。その事で頭がいっぱいになり、憑かれたようになります。そして昂揚は続き、上昇していきます。それが幻想の性質なのです。頭の中の幻想が彼らを行動させます。これは実際に起きている問題なのです。”

 

この現象を研究してきた別の心理学者はシャーリー・グラスです。彼女は関係について、ウェブ・グラス[5]にコラムを書いてもいます。彼女はこう述べます。

“ファンタジーがインターネット上の情事をユニークなものにしています。人は自身の一部しかネット上で見せることはありません。そしてこれが人を幻影に基づいたロマンスへと駆り立てるのです。ファンタジーを触媒するため関係は最初から非常に緊密なものになります。肉体的な接触は必ずしも必要ではありません。ネット上の関係とそれ以外の関係とに共通するものは、秘密と、感情的な親密さ、そして性的な合致なのです。”

 

悪魔は今もスカウト中です。そしてあなたがそれに乗せられてしまうなら、あなたもアン・ランダーズに手紙を書いた人のように、二回目の状態というのは一回目よりも悪いものなんだということを発見するでしょう。けれども離婚を考えている人、または離婚してしまった人たちにもとても大きな希望はあるのです。あなたの過去に何が起こったとしても、神様はあなたのために今計画をお持ちです。神様が修正できないような人の過ちというのは存在しないのです。

この本にでてくる証のいくつかがローマ人への手紙828節に書かれている真理を証明してくれるでしょう。“神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。”もしあなたがあなたの道を主にゆだねるなら、主は最悪の状況からでさえ良いものを作り出すことがおできになるのです。主は失われてしまった歳月も、駄目になってしまった機会も、そして間違った決定もよい方向に向けることができるのです。主はとこしえに贖いの神です。ヨエル書の225節にはこう書いてあります。“大軍勢が食い尽くした年々を、わたしはあなた方に償おう。”言い換えるなら、私たちが主に助けを求めるとき、主は私たちの間違った生き方を乗り越え、良いものをもたらしてくださるのです。

 

神様はこれを教会にいる無数のカップルたちに行ってくださいました。彼らの証のいくつかはこの本に含まれています。同様のことが何回も繰り返して起こりうるのです。なぜなら。主は奇跡的な方法を通して物事を行われるからです。神様の御力と恵みとが他のカップルに限定されたものではなく、あなたの人生のためにも用意されているのだということを主がお示しくださるように私たちは祈ります。神様の贖いの愛はいつも“灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の街頭を(イザヤ書613節)”もたらすのです。あなたがこの本を読み進むにしたがって、それがあなたの人生にも起こりますように。

 

 

第二章

過去を打破する

 

実にあなたは私に対してひどい宣告を書きたて、私の若い時の咎を私に受け継がせようとさせます。ヨブ記1327

 

ヨブという名は試練や患難という言葉と同義語になってきています。彼は全てを持っているかに見えました。けれどもそれを一夜にして失ってしまったのです。家族も、友人も、健康も、そして富も。彼の妻もたいした助けにはなりませんでした。彼女のヨブに対するアドバイスは神をのろって死になさい(ヨブ記29節)というものでした。

 

ヨブ記1326節で、混乱し傷ついたヨブを見ることが出来ます。悲劇の暗闇の中で、彼は神様が自分の若き日の過ちを罰しておられるのだと理由づけました。けれども実際には神様はヨブの大ファンだったのです。天国で神様はヨブのことを自慢しました。けれどもサタンが神様の自慢にこう言って挑戦したのです。ヨブは雇われ人です。あいつはあなたが与えたものがあるからあなたに仕えているのです。それを取り上げてごらんなさい、そうすればあいつはあなたの顔にむかって罵声を浴びせるでしょう。それにあなたがあいつの周りに壁をはりめぐらしたから、私はあいつに触れることもできません。こうして、一時の間サタンがヨブの命に干渉することをお許しになったのです。結果は続けざまに起こる混乱でした。

 

人々はしばしば悪魔によって起こされる混乱について神様を非難します。イエス様は弟子たちにガリラヤ湖の対岸に渡るよう命じられました。嵐が起こり、彼らは遭難しそうになってしまいました。そしてイエス様が来られ、嵐をしずめられました。嵐の原因になったのは誰ですか?それはイエス様の命令に従うことから弟子たちを妨害しようとするサタンではなかったでしょうか?悪魔はあなたが神様に従うことを邪魔するためになら何でもするのです。サタンは神様が私たちの人生で今行おうとしておられること邪魔するために、我々の過去の罪を我々の現状に持ち出すということをします。

 

イザヤ書の4318節には、先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。とあります。けれどもこれこそが悪魔の手段なのです。神様がなさろうとしておられる良いことをだいなしにするために、悪魔は過去の過ちを持ち出してあなたに向かって投げつけるのです。悪魔は解決されていない夫婦間の争いを持ち出します。怒りが私たちの頭の中に常にあることを悪魔は望んでいます。それによって我々が伴侶に対する意見を形作ることを知っているのです。結果はなんでしょうか?昔の事どもが私たちの現在の問題に対する私たちの認識に影響を与えるようになります。現在おかれている状況の中で過去を持ち出すことなしに問題を解決することだけでも大変なことなのです。ですから十分な時間をかけて過去の問題をまず片付けてください。そしてそれらが許され、忘れられ、そして解決された状態にしてください。

 

ある夫婦の結婚生活において、一人がもう一人にとって誠実でなかったということがありました。それはずっと昔に終わったことでした。強い悔い改めと罪の言い表しがなされました。そしてそれは過去のものとして許され忘れ去られるはずでした。それ以来、このカップルはそれが大きいものであれ小さいものであれ不一致はなくす、ということが当たり前になりました。お互いに不誠実にいたるような土台を作らないためです。口論とお互いの視点を譲歩しないことは、それがお互いを解決していない争いというレンズを通して見ることにつながるということを知らない間は、重要でないことに見えるかもしれません。傷つけられた側が、傷つけた側に対して卑屈になったり苦しんだり罪の言い表しを求めている間は、悔い改めた過去の罪は実際のところ赦されたわけでも忘れられたわけでもないのです。その結果、一度は罪をおかしたけれども悔い改めた側も別の土台を築くことになってしまいます。自己の尊厳とアイデンティティ、そして赦される必要を満たすために戦う必要が出てきてしまうのです。過去にしがみつくことは神様が二人に今用意しておられることを台無しにしてしまいます。

 

私たちは伴侶を神様が我々をご覧になるように見なければなりません。私たちの罪は赦され、忘れられたのです。旧約と新約聖書の両方において神様は私たちの罪を思い出されないと言われています。文字どおりわたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さない(エレミヤ書3134節)のです。またこれは、私たちがどれだけ罪深いかを思い出させるために我々の過去の間違いを私たちに向かって投げつけるようなこともない、ということを意味します。ヘブル人への手紙1017節にはこうあります。わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。

 

もし私たちが伴侶を神様がご覧になるように見るならば、私たちは彼らが主が望まれるような夫や妻になることを可能にするのです。神様は私たちのことを薔薇色に見てくださっている、といわれるかもしれません。実際のところそれは血の眼鏡を通してなのです。神様は私たちをキリストにあって赦されているものとしてご覧になってくださいます。主がご覧になられるように相手を見ることができるように、主の眼鏡を通して物事をみようではありませんか。主は喜んでそれをおあたえになると思います。実際のところ主はずっと持っていなさいと言われると思います。

 

 

1.理想的ではない始まり

 

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。エペソ人への手紙14

神様は私たちが彼のことを知る前から私たちのことをご存知でした。私たちが救われる前から神様の御手は私たちの命の上にあったのです。世界の基の置かれる前から私たちは神に知られていました。主の備えが私たちの人生に及んでおり、何もそれを止めることはできなかったのです。けれどもサタンは私たちに結婚について混乱したメッセージを送ろうとします。悪魔は私たちの過去の状況を通して、私たちの現状に対する疑いを引き起こそうとするのです。そしてあまり理想的ではないスタートをきったカップルはその君が結婚にそれだけ問題をかかえているのは、結婚したとき神が君の事を導いていなかったからだよ。という声に耳を傾けてしまいます。サタンはこうつづけます。君たちが一緒になることは神の計画じゃなかったんだ。事故だったんだよ。肉の産物さ。だから君たちの結婚は神にあってのものじゃないんだ。

 

一度神様の結婚における摂理と主権を疑わせることに成功したら、悪魔はこう続けるのです。神は君たちが不幸せな関係にとどまることを望んじゃいないさ。その結婚から抜け出して神が選んでくれる最善の人を見つければいいじゃないか。敵のこの嘘に耳を傾けることで人々は結婚を解消して別の人とやり直さなければならないと信じ始めてしまいます。今度は神様が選んでくださるという完全な相手との結婚です。もしサタンが、私たちの結婚は私たち自身の勝手な行いの結果で、神様の摂理ではないということを信じ込ますことができるなら、私たちは状況が厳しくなるとそこから抜け出すことだけを考えるようになってしまうのです。

 

聖書には神様が全ての状況において主権を持っておられるとあります。わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し・・・(エレミヤ書15節)。あなたの過去がいかに肉欲的で汚れたものであったとしても、神の主権の手は、あなたが生まれる前からあなたの上にあったのです。敵にこの事実をゆがめさせてしまってはなりません。

 

 

ダビデとバテ・シェバの人生における神様の御心

 

よく知られている信仰の英雄たち何人かのスタートは、肉欲的で汚れたものでした。けれども神様は彼らを祝福し用いられました。第二サムエル記11章は、完全と呼ぶには程遠いダビデとバテ・シェバのスタートについて語っています。神の御心が彼らの間違った決定を覆い、それを良いものへと転じたのです。

 

年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。(中略)・・ダビデはエルサレムにとどまっていた。(1節)人が労していないとき、そこは悪魔の仕事場になってしまいます or so the saying goes…。戦っていなければいけないその時に、ダビデは浮ついたことを行っていたのです。眠りにつけなかったある夜、彼は屋上にのぼり、そこから水浴びをしている美しい女性を見ました。地位が高ければ責任も大きくなります。イスラエルの王であった彼は、そこを去ってベッドに戻り枕の下に頭を突っ込んでこう祈るべきだったのです。主よ、私は欲情を抱いています。助けてください!あの光景を頭の中から追い出せないのです。私が抵抗できるよう助けてください!

 

この時点で彼は預言者のナタンを呼んで、枕元でナタンにトーラーを呼んでもらうべきだったかもしれません。そうする代わりに、ダビデは女性のことを調べてしまいました。彼女の名はバテ・シェバです。ダビデはそう言われました。ウリヤの妻です。ウリヤは戦場でダビデ軍の兵士として、ダビデ自身がそうしているべきだったように、イスラエルの名誉のために戦っていました。

 

王として、ダビデはバテ・シェバが彼のもとに来るよう命じました。聖書にはこう書いてあります。彼はその女と寝た。そして彼女は妊娠しました。そこで彼は戦場の報告を持ってこさせるという口実を用いてウリヤを前線から呼び戻すことで彼の罪を隠そうとしました。ダビデは、ウリヤが家にいる間にその妻と寝るだろうと推測したのです。そうすれば誰もがウリヤが父親だと思うことでしょう。けれども、王への報告の後ウリヤは家に戻りませんでした。そうする代わりに彼はダビデの住まいのドアの前で従者と一緒に眠ったのです。

 

なぜ、自分の家に帰らなかったのか。翌朝ダビデはこう尋ねました。

 

ウリヤはこう答えました。神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。ダビデの恥ずべき行為はウリアの清廉さによってさらに増幅するだけでした。

 

次の夜ダビデはウリヤを酔わせました。今度こそはウリヤも好色になって彼の妻と一緒にいようとするだろうと考えたのです。けれどもウリヤは自分の信念に忠実でした。再び外でダビデの従者たちと一緒に眠ったのです。ダビデはさらに悪行を重ねることになりました。彼は戦場の司令官のヨアブに向けた封印入りの手紙にウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。と記してそれをウリヤ自身の手に託したのです。

 

それが為されたという知らせが届いたとき、バテ・シェバは喪に入りました。けれどもその後それほど時間を経ずして彼女とダビデは結婚したのです。2年間の間ダビデは自分の犯した罪という雲の下で生活しました。その後ようやく預言者のナタンがやってきて寓話を通してダビデの罪と立ち向かったのです。

 

主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。富んでいる人には非常に多くの羊と牛の群れがいますが、貧しい人は、自分で買ってきて育てた1頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮らし、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところで休み、まるで彼の娘のようでした。あるとき、富んでいる人のところにひとりの旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。“”(第二サムエル記12章1-4節)

 

義憤がダビデのうちに起こりました。それで彼は富んでいる人が取り上げたものの4倍を償いとして支払わせることを課すことにしました。その男は死に値する!と彼は叫びました。ナタンは彼を見てこう告げました。あなたがその男です!あなたはウリヤの妻を奪いました。あなたの王国にいるどんな女も自分のものにすることができたのに、あなたはあえて他人の妻を取り去ったのです。あなたが罪人なのです。

 

ダビデは悔い改め叫びました。私は主に向かって罪を犯してしまった。ナタンは彼にこう言いました。主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。(真実な悔い改めがなされるとき、赦しは即座に与えられるのだということを知っておくことは重要です。)ナタンはまたこう言いました。ダビデ自身は死なないが生まれてくる子供が死ぬだろう、と。ダビデは断食し祈りました。けれども赤子は死んでしまいました。その後ダビデはこう述べました。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。(第二サムエル記12章23節)

 

このような評判の悪いスタートをきった後、ダビデとバテ・シェバは別の子をもうけ、ナタンがそういったように・・・・???

ひどい始まりさえも、それが主の御手にゆだねられたときには祝された終わりを迎えることができるのです。ソロモンは父ダビデの跡を継ぎ王となりイエス・キリストへと至る系図に名を連ねることになりました。

 

ダビデとバテ・シェバのように、あなたも間違った始め方をしてしまったかもしれません。けれども神は、あなたがただ自分の人生を彼にゆだねさえするならば、物事をまっすぐにしてくださるのです。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ人への手紙8章28節)

 

ダビデとバテ・シェバが朝食の席でお互いを見て、私はあなたのことを好きじゃないな。とお互いに思ったこともあっただろうと私は思います。もしかしたら、ダビデはこう言ったかも知れません。大体において、何だってお前は屋上で堂々と水浴びをしたりしたんだ?そういうことをやる女って何者なんだ?恥じらいってものがなかったのかい?

 

そしてそれに対してバテ・シェバはこう言い返したかもしれません。それなら、屋上からこそこそ覗き見をしていたあなたは何者なのよ。私が結婚してるって知ってたのに私にあなたのところまで来させたりして。あなただって同罪よ!

 

彼らは多くの困難を乗り越えなければならなかったはずです。けれども、究極的には神は彼らの関係を祝福されたのです。

 

ダニータと私は、間違った始まりをしたけれども今は神の目に正しいことを行いたいと願っているカップルに、経験を通してこう言うことができます。ダニータが13歳で私が17歳のときに我々は出会いました。理想的とは言いがたい状況の中で3年後に私たちは結婚しました。そしてその後7年間私たちはお互いとそして結婚を駄目にしてしまうような考えうるすべてのことをやりました。その後で私は救われました。約一年後にはダニータも主を受け入れました。こうして二人とも聖書を読み、教会に行って、家では聖書研究会も開くようなクリスチャンになったのですが、それでも私たちが作り出してしまった人生の縺れを主が解きほぐしてくださるのに多くの年数がかかりました。この関係は絶対主の御心じゃないと私が思ったこともありました。ひどい始まり方をしてしまったし、多くの争いをその時も経験していたからです。けれども、私たちがひとつひとつの試練を乗り越えるたびに、私たちはそれを振り返って、いかに神の御手が我々の生活のうえにあったかということを見ることができたのです。

 

赦したくないという思い

神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。第二コリント7章10節

 

神は彼らの関係が築き上げられるのに関わっておられず、それはすべて彼らの罪の結果なのだ、そう夫婦に信じ込ませることは、サタンが結婚を滅ぼすために用いる策略の一つです。この他に、神が今なさっておられることを駄目にしてしまうために、過去の罪を今持ち出すというやり方が為されるときもあります。悔い改められた過去の罪と悔い改められていないそれとには大きな違いがあるのです。

 

人が罪に対して悲しんではいるけれども、真実な悔い改めを明らかにしないとき、一つの明確な問題が起こります。その人が悲しんでいるのは、罪がばれてしまってばつの悪い思いをしているからなのでしょうか?それはこの世的な悲しみなのでしょうか?それともそれは罪と同じように悔い改めも明らかになり、人生が変わるような、正しい悔い改めでしょうか?

 

再びヨブ記13章26節を思い出してみてください。ヨブはこう考えました。実にあなたは私に対してひどい宣告を書きたて、私の若い時の咎を私に受け継がせようとされます。夫婦のうち一方がもう一方の既に悔い改られた過ちを非難するとき、悪魔はそこに不和を作り出すことができるのです。聖書の詩篇25章7節にはこうあります。私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。あなたの恵みによって、私を覚えていてください。主よ。あなたのいつくしみのゆえに。

 

もし主が私たちの罪によって私たちを不利にしてしまうようなことをなさらず、それを思い出されもしないのであれば、私たちもお互いの罪によってお互いを不利に陥れるようなことはするべきではないのです。それが先週のものであれ、去年おこったものであれ、20年前に起こったことであっても、あなたの伴侶の罪を忘れずにいて、それを相手を攻撃するための武器にすることであなたの結婚はみうごきのとれないものとなってしまうのです。

 

美女と野獣

第一サムエル書25章で、ひどい夫を持った美女の話を読むことができます。それは美女と野獣の旧約聖書バージョンなのです。アビガイルが美女で、彼女の夫のナバルが野獣です。彼は死ぬまで野獣でした、ともいえると思います。

 

マオンの地にやってきたとき、ダビデとその家来たちはサウルから逃走中でした。近辺で裕福だったナバルは彼の羊を僕たちに任せてカルメルで事業をおこなっていました。ナバルの留守中、ダビデとその家来たちはマオンのナバルにいる僕たちと家畜のそばに宿営を張り盗賊や略奪者の手からそれを守りました。その見返りとしてダビデはナバルに使いをやり、挨拶をさせて、家来のために少しばかりのものを求めました。その当時それはよく行われていたことでした。ナバルはダビデの正直さを馬鹿にして無礼な調子でこう返答しました。ダビデは逃亡奴隷にすぎないではないか。あいつは王国の反逆者だ。俺はそんな奴と関わりあいにはならんぞ。激怒したダビデは剣を身につけ、こう宣言しました。あいつの財産を守ったのは無駄な骨折りだった。あいつは悪を以って善に報いたのだ。やっつけてやる。

 

その言葉がナバルの妻-私たちは彼女が美しく聡明であったということ以外には、この女性についてほとんど知らないのですが-であったアビガイルの耳に入りました。彼女は即座に贈り物の準備を始め、しもべを先に送ってダビデに会わせ、彼女のためのとりなしをさせました。すみません、ダビデ様。家の女主人があなたの望まれた品々を持ってこちらに向かっております。お願いですから少しの間だけ剣を収めて彼女の言うことを聞いていただけないでしょうか?

 

しもべたちはダビデに、ナバルは近辺では名うての石頭で価値のない者だとされているということも話しました。ナバルのしもべも妻もそのことを知っている、と。ナバルの性格には欠点が多かったのでした。

 

ダビデはアビガイルと対面しました。アビガイルはダビデの前にひれ伏しこう言いました。私たちを憐れみ、主のなさる復讐をご自分の手でなさろうとしないで下さい。この信仰深い女性は、将来のイスラエル王に対して、自分のために行動するのではなく神が必要なことを為してくださることを信頼するように勧めたのです。

 

ご主人さま。どうか、あのよこしまな者、ナバルのことなど気にかけないでください。あの人は、その名のとおりの男ですから。その名はナバルで、そのとおりの愚か者です。このはしための私は、ご主人さまがお遣わしになった若者たちを見ませんでした。(第一サムエル記2525節)

 

要するにアビガイルはこう言っていたのです。私の夫の振る舞いが愚かだったからといって、あなたが同じようにする理由はないはずです。ナバルというのが夫の名前で、そのとおり彼のやり方というのは愚かなのです!。 彼女が話すにしたがってダビデは冷静さをとりもどし、彼女の直感をたたえて、彼女を祝福されたものと呼びました。ダビデは彼女の贈り物を受け取り、平和のうちに彼女を家へと送り出し、自分たちの来た道を戻っていったのです。

 

アビガイルは家に戻り、彼女のやったことを夫に話すのに適当な時をみつけようとしました。彼女がナバルの頑固な生命と彼の持ち物とを救ったということを。ナバルは盛大な宴会を催しており、アビガイルはナバルが酔っ払っているのを知りました。それで彼女はナバルの酔いがさめるまでダビデのことを話すのを待つことにしました。(もしかしたら彼女はアルコールと虐待というのが同じところから出ているということを経験していたのかもしれません。)

 

朝になってナバルの酔いがさめたとき 彼女はそのことをナバルに告げました。どうして彼も他の人々もまだ生きているのかその理由を。聖書は、彼がその言葉を聞いたとき彼は気を失って石のようになった、と記しています。彼は非常に頑固者でした。自分の妻が自分の意思に背いたということ-たとえそれが彼の家族にとってよいことであっても-を彼の自己中心さは耐えることができなかったのです。彼の高慢さが、それを受け入れることを拒みました。自分の心を和らげるかわりに、彼は固くなってしまい10日後には死んでしまったのです。

 

私たちすべての中にいるナバル

赦さない気持ちを抱き続けることは、結婚を滅ぼしてしまうだけでなく、赦そうとしないその人をも滅ぼすことになるのです。Once sins have been repented of they need to stay in the past. もし私たちが伴侶の過ちについていつまでもくよくよと考え続けるなら、私たちは神様が私たちの未来に備えてくださっているものに移ることができないのです。

 

アビガイルとナバルの物語を読めば、彼女は正しく彼は間違っていたという結論に達します。男性は自分と妻との関係がナバルとアビガイルのような関係だとは考えたく(実際そうでなければいいのですが)ありません。けれども私は、すべての男性がナバルのような一面を持っていると信じています。男性が自分たちの態度のチェックを怠るなら、女性を助け手のようにではなく、生贄の山羊のように扱うようになってしまうのです。男性が偉業を成し遂げない理由や、男性が心の奥底で実際は自分はそういう人間だと考えるような素晴らしくて、幸せで、そして楽しい人でいることの出来ない原因が彼の妻になってしまうこともありえるのです。

 

今ここでナバル・テストを受けて、自分の性格の中にナバルのような部分が存在しているかどうか確認することが出来ます。

 

-結婚した当時と比べてみて、あなたは自分の伴侶に対してより優しくなっているでしょうか、それとも厳しくなっているでしょうか?

 

-あなたの伴侶の弱さに対して、あなたは去年よりも寛容でしょうか、それとも非寛容でしょうか?

 

-あなたの伴侶が過去の罪を悔い改めたにもかかわらず、あなたは伴侶の性格を過去のことを通して小うるさい、醜い、魅力的でないなどとして記憶していませんか?

 

-伴侶の強い部分を感謝しているでしょうか、それともそれを脅威だと感じているでしょうか?

 

-伴侶の弱い部分を外に明らかにしてしまうでしょうか、それともそれを隠しているでしょうか?

 

おわかりになりますか?自身の人生において、妻に対して不健全な態度をもつようになってきていると私も気づいたのです。彼女が心の問題を私と話そうとするとき、私は彼女の言うことを聞いていませんでした。何度も繰り返して彼女は自分の意味するところを表現しようとしたのですが、私は一言も聞こうとしませんでした。彼女のことをナバルのように認識することによって、私は既に自分の結論を導き出していたのです。

 

電灯が頭の中に突然ともるように物事を理解するためには、時には莫大な時間と労力が必要となります。それは実に大変な作業です。電灯がともったとき、私はこう言っている自分に気がついたのです。ああ、それが君の言っていることだったんだな。それが君の意味することだったんだ。君が何を言っていたのかようやくわかったよ!。

 

ナバルのような傾向が私たちの中にあるのだと認めたくはないかも知れません。けれども非寛容さが私たちの心を頑なにし意思疎通を切断してしまうなら、私たちの結婚の破綻は切迫したものとなるのです。ナバルの生と死は、いかに寛容でない魂が物事を破壊に導いてしまうのかを描写しています。内側の怒りを保ち続け、既に悔い改められた過去の罪を赦さずにいる限り、私たちの伴侶が何を言っているのか本当に聞くことはできないのです。赦さない霊は耳の門とつながっています。それが話を聞くプロセスを阻害し、理解できないように頭脳を混乱させるのです。あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。(マタイ書1314節)

 

 

赦しについてイエス様がおっしゃっていること

 

マタイ書18章でイエス様はたとえ話を用いて赦しについて話しています。たとえ話とはOne thing laid down next to anotherもしくは単に天国での真理を語るためのこの世のお話です。聞くものが深い理解を得られるようにと意図されているのです。ですからそれは部屋にある窓のようなものです。それによって光が入ってこれるのです。

 

マタイ書のこの部分で、イエス様が人を困らせる攻撃的な人々についてメッセージをされた後、ペテロは赦しについて考えていました。そしてペテロはこう尋ねました。主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。(マタイ1821節)ペテロは多分、同じ人を一日7回も赦すだけの意思があるなら、それによって主を感動させることが出来るだろうと思っていたのです。本当のことを言えば、私は感動させられています。

 

考えてみてください。知人が来てこう言います。たくさんの職場の同僚と一緒にあなたの悪い噂話をしてしまいました。赦してください。そしてあなたは彼を赦します。

 

一時間後彼が電話してきてこう言います。今スポーツ・クラブにいるんだけど、なんだか気がつかないうちに、ここにいる人たちにあなたのことを中傷するようなことを話してしまったんだ。赦してください。あなたはこう考えます。こいつ、なにしやがるんだ。けれども、霊的でいたいあなたはこう言います。わかった。赦すよ。でも何をしゃべるか気をつけてよ。評判ががたがたになっちゃうから。

 

その45分後、彼はまた電話してきてこう言います。赦して欲しいんだ。さっきスーパーにまでミルクを買いに急いで行ってきたんだけど、レジに向かう列にならんで人と話してるときに、また君の悪口を言っちゃったんだ。私だったらこの時点でたぶん冷静さを失い、非常な皮肉屋になって、彼の誠実さを疑う調子でこう言うでしょう。あのさ、僕も昔は天使だったんだ。君の僕に対する悪口が僕の翼を噛み千切るまではね。だめだよ、もう赦さない。そして君の顔も二度と見たくない!

 

私はペテロの一人の人による同じ過ちを一日7回赦すことのできる能力には感動させられます。けれどもイエス様は感動しませんでした。イエス様はペテロにこう言いました。七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。別の言い方をすれば、点数をとるのを止めなさいということなのです。私たちは、今までに何度気分を害されて何度赦したかといったようなことを記録しているような人々のようであってはならないのです。イエス様は、それは回数の問題ではなく態度の問題だと言っているのです。赦す心を持ってください。

 

具体的に描写するために、イエス様はこういうたとえ話を用いられました。

 

このことから、天の御国は、地上の王にたとえることが出来ます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラント(今日でいう一千万ドルくらいで、返済不可能な額です。当時ビル・ゲイツや、その他の億万長者たちは存在していませんでした)の借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。(マタイ182325節)

 

別の言葉で言えば、正義が状況に当てはめられたということです。それは純粋な報いでした。あまり親切なやり方ではないと思うかもしれません、そしてそれは正しいかもしれません。けれども法律的にはそれが正しいやり方だったのです。

 

この負債を負った者の反応に注目してください。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、どうかご猶予ください。そうすれば全部お払いいたします。と言った。26節)しもべは自分の有罪を認めて、返済を行う意思を示したのです。悔い改めは主にとっては喜ばしいことです。27節で彼の主がこう言っていることに注目してください。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。けれどもその後28節で、ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、借金を返せ。と言った。ここでしもべは別の奴隷に向かって、彼が経験したシナリオを繰り返したのです。それは正しい言い分でした。その奴隷は彼に借りたものがあったのです。彼が主人から借りた額に比べれば微細なものでしたが。百デナリは大体14週間分の給料でした。普通の契約職業をとおして返していくことのできる額でした。その意味するところは、債務者がある一定の期間債務が返済されるまで働くことです。この場合だとそれが14週間かかったということになります。

 

彼の仲間は、ひれ伏して、 もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。 と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。(マタイ182930節)自分の主によって多額の借金を免除してもらった者が、今度は仲間の小さな借金を免除するのを拒んだのでした。そしてその仲間を牢屋に放り込んでしまいました。牢につながれた状態で借金を返せるでしょうか?無理に決まっています!。これは憎しみを握りしめ、いつでも取り出せるような状態にしておくことの例です。復讐と赦さない心とがよく描写されています。

 

彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。 悪い奴だ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。’  こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天の私の父も、あなたがたに、このようになさるのです。(マタイ183135節) 

 

何によって主がお怒りになるか知りたいですか?この箇所は赦さない心が主を怒らせることを明らかにしています。この箇所の象徴するところは明らかです。最初の僕の借金は返済不可能な額でしたが、彼が悔い改めたときに主人は僕を赦したのです。

 

私たちは、神様に対する負債を返済することのできないこの僕なのです。宇宙にある全ての金脈を所有して、永遠にそれを掘り続けたとしても十分ではありません。ですから、神様はご自身をその代価としてくださいました。御子であるイエスの血です。[6]

 

ご承知のように、あなた方が先祖から伝わったむなしい生き方から購い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(第一ペテロ11819節)

 

カルバリの丘で流されたイエス・キリストの血は私たちの負債を返済するのに十分なものです。他人、特にあなたの伴侶の罪を赦すのにあなたが必要とするものは何でしょうか?赦される望みも、脱出の見込みもないような霊的な牢屋にあなたの伴侶を閉じ込めてしまっていはいないでしょうか?赦すのに何かを犠牲にしなければならないでしょうか?ほんの少しのプライドですか?それとも自己中心的な考え[7]でしょうか?謙虚になることでしょうか?ナバルのことを思い出してください。彼は赦すことを拒み、それは彼にとって大きな負担となったのです。

 

先の例え話によると、主は借金を全部返すまで悪い僕を獄吏に引き渡した、となっています。主がクリスチャンを天国に入れなくする、とこの箇所が言っているようには見えません。けれども間違いなく、人がこの世の地獄を味わうことになる、ことをこの箇所は描写しています。赦さない心は、その(赦さない)人の人生を食い尽くしてしまうのです。それは昼には苦しみをもたらし、夜には苦しみからくる痛みをもたらすのです。人を老け込ませ、精神を蝕み、内側から人を苦しめるのです。

 

 

過去を打ち負かすこと

 

敵による2つの策略をこれまで見てきました。一つ目は、理想的とはいえないような始まりを理由にして、神様が一緒にいるよう召されたのだということを、夫婦が疑うように仕向ける策略です。そして二つ目は夫婦の片方が、伴侶の(悔い改めた)罪にこだわり続けるように仕向けることによって、その伴侶を赦しの与えられない牢屋に閉じ込めようとする策略です。[8]これらのことが、私たちの結婚生活を成長することもなく、神様のご計画に沿うこともないような、活気のない[9]ものとしてしまうのです。

 

良いスタートをきることができなかったとしても、神様はあなたの人生と結婚生活において主権を持っておられるという事実を受け入れてください。神様の御手があなたを今に至るまで導いてきてくださったのです。[10]あなたの過去はダビデとバテ・シェバのような劇的なものではなかったかも知れません。けれどもそれがどのような状況であったとしても、神様の主権と導きがあなたの上にあったのです。

 

ヨブのことを思い出してください。最初ヨブは、彼の受けた試練は神様が彼に敵対していることのしるしだと受け止めました。実際には神様は常にヨブの味方で、すべてが良い結果を生むようにと計画されていました。ただ時間がかっただけのことだったのです。ヨブが人生を終えるころ、彼は当初の2倍もの祝福を受けていました。[11]彼が受けた試練や困難は永続するものではないということをヨブは理解するようになっていました。神様が栄光に満ちた将来を計画され、そしてそれらの困難が起こることをお許しになったのです。

 

あきらめてしまわないで下さい。それがとても悪いことであるかのように見えたとしても、神様がなさっておられることは良いことなのです。神様のご計画がヨブの人生において明らかになり、ヨブが想像を超えるような祝福を受けたとき、ヨブは(短く表現するなら)もう黙ろう!、と言いました。厳密には、ヨブ記423節の次のような発言でした。まことに、私は、自分で悟り得ないことを告げました。自分でも知りえない不思議を[12]

神様の導きがあなたとあなたの伴侶とを一緒にしてくださったのです。これから先に進み、結婚生活において神様からの祝福を受けるためには、伴侶のことを赦すことで過去を打ち破る必要があるのです。

 

赦しに関しては、以下の三つの原則を応用してみてください。

1.赦しを求める側に必要なのは、何とかなる 的な態度[13]ではなく、悔い改めの心です。別の言い方をするならば、赦しを最初から期待することよりも、心から悔い改めることに気を配るべきなのです(赦しはいずれ与えられます、けれども悔い改めは赦しを前提条件としたものであってはいけません)。

 

2.間違いをおかされた側は、赦そうという姿勢と態度を保たなければいけません。

 

3.カップルは、神様が二人とその置かれている状況について示されている約束を信じて、二人の上に当てはめていく必要があります。ですから、聖書を読み、神様が示されていることを学んでください。[14]

 

 

 

第三章

敵による予期せぬ道具[15]

 

蜜を見つけたら、十分、食べよ。しかし、食べ過ぎて吐き出すことがないように。(箴言2516節)

 

結婚における祝福にもなりえるし、別の時には気づかぬうちに敵の道具となり、予測できないような方法であなたの関係を崩壊させることもありえる、そんな“もの” があります。それは一体何でしょうか?

 

答えは  あなたの子供や、義理の家族、そして友達です。

 

「良いものを取りすぎる。[16]」という表現を聞いたことがあるかも知れません。箴言2516節はそれについて描写しています。私たちは甘いものが好きですが、甘いものを食べ過ぎると気分が悪くなります。人生に喜びや楽しみ、そして甘みをもたらしてくれるものを、敵は巧妙に利用します。理想的なのは、私たちが家族や友人たちとともに「いつまでも幸せに」暮らすことなのですが、時にはそういった良いものが緊張に満ちた争いを生み出すことがあるのです。

 

 

子供をめぐる分裂

 

詩篇の1273節にはこう書いてあります。「見よ、子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。」神様が賜物として用意されたものが、どうやったら結婚における試練へと変化してしまうのでしょうか?子供は明らかに結婚生活を緊迫させる作用をもたらします。そして悪魔はそれを用いることで家庭を不和に陥れようとするのです。あなたが病院から連れて帰ってきた無邪気な乳児は、やがて“ひどい二歳児”になり、そしてあっという間に“恐るべき10代”の子供へと成長を遂げます。その間ずっと、そして大人になった後も、これら主の賜物が、賜物というよりは奈落の底から現れた野獣に見える時がしばしば起こります。あなたの人生における喜びであるはずの子供が、結婚における試練に変化してしまうのはどうしてでしょうか?子供がストレスの原因にならないように、何らかの予防薬を前もって摂取することは出来るでしょうか?

 

 

イサクとリベカ:完璧に見えた恋愛

 

愛とロマンスについての美しいお話が創世記24章にはあります。イサクとリベカの物語は、聖なる導きと魅惑に満ちたお話しです[17]。アブラハムは、息子イサクの妻をその時住んでいたカナンの女性の中から選ぶことを良しとせず、しもべを故郷のメソポタミアに送ってそこで妻を選ぼうとしたのでした。しもべはナホルの町の外の井戸にたどり着いたあと、こう祈りました。

 

「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧下さい。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に「どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。」と言い、その娘が「お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。」と言ったらなら、その娘こそ、あなたのしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることが出来ますように。」 創世記2412-14

 

しもべが祈ったそのとおりのことが起こりました。羊飼いのリベカが井戸に現れ、しもべは彼女に水を求めました。彼女はこう答えました。「どうぞお飲みください。だんなさま。」「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう。」(18-19節) アブラハムのしもべは、あまりも簡単にそれが起こったので、他にも確証[18]を求めた方がよいと考えましたが、やがて主が彼の祈りに答えてくださったのだということを確信するようになりました。しもべが彼の使命をリベカに明かしたあと、二人はリベカの両親に会いに行きました。しもべはリベカの家族に対して再び彼の使命を説明し、家族はリベカにどうするか選択する自由を与えました[19]。リベカはそれが、彼女に対する神様の御心なのだと信じ、将来の夫に会うための長い旅に出ることを決意したのでした。

 

彼らがアブラハムの住居に近づいた時、リベカは目を上げ、遠くの野原を歩いている一人の男性を見つけました(イサクは瞑想のために野に出ていたのです[20])。彼女はしもべにこう尋ねました。「野を歩いてこちらのほうに私たちを迎えに来るあの人はだれですか?」しもべはこう答えました。「あの方が私の主人の息子で、あなたが結婚することになるイサクです。」それを聞いたリベカはベールで慎み深く身を覆い、馬から降りてイサクのほうへと向かっていったのでした。

 

その場面を想像してみて下さい。お花畑の中で二人が互いに向かってスローモーションで駆け寄っていき、抱きしめあい、キスを交わし、その後いつまでも幸せに暮らす そんな歯磨き粉のコマーシャルに出てくるような光景です。けれども実際のところは、このお話しはそういう終わり方で完結したわけではありませんでした。確かにそれは、愛と、ロマンスと、聖なる導きによって始まりました。野原での出会いのあと、イサクはリベカと結婚し、リベカを愛しました。けれどもそのあとで、子育てが二人のシンデレラのような美しい物語の間に割り込むようになってしまったのです。

 

 

ロマンスから子育て[21]

 

二人の間に双子が生まれて全てを劇的に変えてしまうまでは、イサクとリベカの愛と結婚のお話は究極の恋愛小説のようでした。エサウとヤコブは、双子であると同時に生まれながらのライバルでした。エサウは頑丈な子供でした。彼は猟師で、アウトドアを好み、荒々しく毛深くて、強い体臭をもっていました。彼の男らしさのゆえに、彼はイサクのお気に入りでした。弟のヤコブはエサウとはかなり異なっていました。ヤコブはデリケートで従順なタイプでした。料理をしたり、テントの中で母親と一緒にいたりすることをヤコブは好みました。そんな彼をリベカは気に入っていました。彼らが成長し、性格の違いが明らかになるにしたがって、家の中は多少分裂するようになりました。穏やかな性格を持つほうの息子が母親と料理をしている間、荒々しい方のもう一人の息子は外で父親のために狩りをするような生活を送っていたのです。

 

やがて摩擦が二人の息子の間に起こるようになりました。子供の性別や年齢に関わらず、これはどの家庭にも起こることで、“兄弟姉妹間のライバル関係[22]” と呼ばれています。親はそれぞれのお気に入りの子供の側に立つようになります。イサクとリベカの場合、エサウはイサクのお気に入りで、ヤコブがリベカのお気に入りだったのです。

 

ある日、ヤコブが煮物を煮ているときに、エサウが飢え疲れて野から帰ってきました(創世記2529節)。少しの交渉のあと、エサウは自分の長子の権利を、ヤコブの一杯のシチューと交換してしまいました(長子の権利は、最初に生まれたエサウに属していました。彼は神様からの祝福の伝統を受け継ぐ特権を持っていたのです。)。後になってエサウはヘテ人の女性と関係を持つようになり、この女性達が“イサクとリベカにとって悩みの種になった(創世記2635節)”と聖書にはあります。

 

エサウの気質の中に流れるものが見え始めたでしょうか。まずエサウは、長子の権利を軽々しく扱うことによって、神様について無関心であることを示しました(創世記252034節)。次に彼は異教徒の妻を娶ることによって、両親を悩ますようになりました。けれども、エサウはイサクのお気に入りでした。彼の数々の過ちにも関わらず、イサクは彼を祝福することを願ったのです。

 

やがてイサクが年をとり、視力が衰えてよく見えなくなった時、彼はエサウにこういいました。「おまえの道具の矢筒と弓を取って、野に出て行き、私のために獲物をしとめて来てくれないか。そして私の好きなおいしい料理を作り、ここに持ってきて私に食べさせておくれ。私が死ぬ前に、私自身が、おまえを祝福できるために。」(創世記2734) イサクが話している間、リベカはそれを立ち聞きしていました。そして、エサウがイサクの願いをかなえるために出かけると、イサクを欺きエサウの祝福を奪うためのはかりごとをヤコブとはりめぐらしたのです。

 

サタンの策略は、しばしば子供をめぐる家庭の不和をきっかけにします。一人の子供が、他の子供よりも偏愛される時、敵はやってきて混乱と不和をつくりだします。家庭における偏愛は、言葉によって表される必要はありません。簡単に感じることができるものだからです。

 

覚えておいてください。「神はかたよったことをなさらない」(使途の働き1034節)のです。私たちもそうするべきではありません。

 

 

欺きの拡大

 

イサクの家庭において欺きが行われたのは、この時が初めてではありませんでした。裏表のある[23]関係の種は、イサクとリベカが飢饉を避けて食料のあるゲラルに旅した時に蒔かれていました。リベカがあまりに美しかったので、イサクは人が自分を殺してリベカを王のハーレムに入れてしまうのではないかと恐れました。そこでイサクは、リベカが妹だと主張することで、王のアビメレクを欺こうとしました。イサクはこれによって危険を避けることができましたが、逆にリベカを無防備な状態にさらし出してしまったのです!。

 

ある日の午後アビメレクは窓から、イサクがリベカを愛撫しているのを見かけました。王はイサクを責めてこう言いました。「確かに、あの女はあなたの妻だ。なぜあなたは「あれは私の妹です。」と言ったのだ。」(創世記269節) イサクは、敵対者の多い土地で美しい妻と共にいることに対する恐れを告白しました。アビメレクはそれを責め、こう言いました。「なんということをしてくれたのだ。もう少しで、民の一人があなたの妻と寝て、あなたはわれわれに罪を負わせるところだった。」(創世記2610節) 異教徒の王が、神の人の欺き-リベカを危険にさらし、民が罪を侵しかねない状況にしたこと-を責めたのです。

 

イサクが妥協した時、彼は夫として妻を守ることに失敗してしまいました。結果として、彼女は自分で自分の身を守らなければならない状況へと追い込まれてしまいました。夫が、その妻を守られていない危険な状態に置き去りにするとき、妻は自分で自分の身を守るための独立した状態へと追いやられてしまいます。そして、それが家庭に不和をもたらすのです。女性がそれを望むわけではありません。神様はこう宣言されました。「あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」(創世記316節)

 

イサクによる欺きと、リベカを危険で無防備な状態に置き去りにしたことが、結果として家庭に不和をもたらすことになりました。リベカがそれを意識していたかどうかは分かりませんが、彼女は用心深くなっていきました。イサクによるエサウを祝福するための計画を立ち聞きした時、彼女はヤコブがその父を欺き、祝福を盗み取るように手助けしました。この時も彼女は自分が無防備であると感じていたのです。彼女はそこに神様の御心を感じ取ってはいましたが、自分の夫の判断を信じることができませんでした。そして夫から独立した行動をとったのです。

 

彼女は実際にはこうヤコブに言ったのです。「行って、エサウの振りをして、祝福を盗んでしまいなさい。」

 

けれどもヤコブは言いました。「でも、兄さんのエサウは毛深い人なのに、私のはだは、なめらかです。もしや、父上が私にさわるなら・・・。」(創世記271112節)

 

リベカは、ヤコブに毛皮をとって腕と首に巻きつけるよう言いました。そうすることで、イサクがヤコブのことを、毛深いエサウであると勘違いするように仕向けたのです。

 

ヤコブは恐れました。「(父上は)私にからかわれたと思われるでしょう。私は祝福どころか、のろいをこの身に招くことになるでしょう。」(12節)けれどもリベカは譲りませんでした「わが子よ。あなたののろいは私が受けます。ただわたしの言うことをよく聞いて、行って取って来なさい。」(13節)

 

ヤコブは、エサウのにおいを身に着けるためにエサウの晴れ着をまとい、毛深く見せかけるために毛皮を首と腕に巻きつけ、イサクのもとに行ってこう言いました。「お父さん。」

 

イサクはこう答えました。「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」(18節)

 

ヤコブは父親にこう言いました。「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」(19節)

 

そこでイサクはこう言いました。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい。」

 

ヤコブはイサクに近寄り、イサクは彼にさわって、言いました。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」(22節)

 

そして父親は息子に対して「わが子よ。近寄って私に口付けしてくれ。」と言いました。

 

ヤコブは近寄って、口付けしました。イサクはヤコブがまとっていたエサウの着物のにおいをかぎ、ヤコブを祝福しました。欺きは成功しました。ヤコブは、父の兄への祝福を盗み取ったのです。ほどなくしてエサウはヤコブの欺きを知り、激怒してヤコブを殺そうと考えました。けれどもリベカは素早くヤコブを逃がしたのです。(4344節)

 

ヤコブが家を離れた後、リベカとヤコブが再会したとの記述がないことは重要なポイントです。リベカは「兄さんの憤りがおさまるまで、しばらく家から離れていなさい。」と言ったのですが、ヤコブと家族との別離は20年以上に及ぶものとなりました。ヤコブが後になって家に戻った時、リベカはすでに亡くなっていました。リベカは、子供との交わりと夫からの信頼との両方を、欺きと欺きから来る家庭不和によって失ってしまったのです。

 

罪を選択することは可能でも、罪の結果を選択することは私たちにはできません。神様は、私たちが欺くことを選ばなくても、ご自身の御心を実現させることのできるお方です。イサクとリベカの両方が罪を犯し、非常に重い代価を支払うことになったのです。

 

 

子育てにおける古くからの法則

 

イサクとリベカの物語から学べることがいくつかあります。彼らの始まりはシンデレラ・ストーリーのようでしたが、彼らの終わりはひどいもの[24]でした。とても“そして二人はいつまでも幸せに暮らしました” などと形容できるものでもありませんでした。深い失望と大きな困難に形容される二人の人生は、良い結婚のモデルというよりは、“サバイバル結婚”の例とでも言うべきものでした。二人の関係について学ぶ時、敵が両親をその子供を通して攻撃するということが明らかになります。彼らの結婚生活は、子供たちが二人の間に楔を打ち込むことを通して、困難なものになったのでした。同様のことは、他の夫婦にも起こり得るのです。

 

結婚がずたずたにならないようにする為に応用できる5つの法則をここで挙げてみます。

 

1. 子供に関することで仲違いしないこと

 

しつけが仲違いの理由になることがあります。夫婦のどちらか一方が、もう一方のやり方は厳しすぎるとか、甘すぎるとか考える場合もありますし、しつけの方法について二人が一致しないという場合もあります。子供の年齢に関わらず、親の片方が子供の味方をしてもう片方の親に対抗する時、不和は避けられないものとなります。

 

皆さんの子供が皆さんと一緒にいるのは、ほんの一時にすぎないのだということを覚えておいてください。いつの日か子供が親元を離れる時、残りの時間を一緒に過ごしながら、残骸を拾い集めるのはあなたとあなたの伴侶の仕事になるのです。子供に関する争いによって蒔かれた種は、子供が巣立った後、朝食のテーブルでお互いと向かう時に刈り取られることになるのです。イサクの家族のように、長年にわたる仲違いや、欺き、そして信頼関係の損失などがそこにあった場合、二人の関係はとても苦々しいものとなってしまいます。

 

2. 表向きの一致を常に保つこと

 

子供たちは、家族の絆の最も弱い部分を見つけ出す不思議な能力を持っています。ある分野において、父親の方が緩い基準を持っていれば、子供たちは父親を自分たちの側に引きずり込み、母親に対抗しようとします。母親が甘ければ、母親と組むことで父親に対抗したりもします。子供たちは、自分の要求を通すために親を分裂させることを心得ているのです。子供たちの前で夫と妻がどう振舞うかというのは、こういったことを避ける上でのとても重要な要素です。二人が一致している、ということを子供たちに見せておかないと、子供が利用できるような絆の弱さがさらけ出されてしまうことになります。二人は一致しているのだということを、子供たちに対しては常に見せるようしてください。

 

3. 自分が誰の側につくか、子供たちに選ばせないこと

 

特定の側につくことなく、問題を解決してください。時々子供たちは、他の家族の一員に敵対する際に親を巻き込もうとします。自分の兄弟や片方の親との争いにあなたを巻き込み、味方してもらうために、自分がどれだけひどい目にあったか、あなたに話したりもします。子供の味方をしたいという思いを抑えて、ただ問題を解決することに集中してください。

 

4. 問題の本質に関して、悪魔によって混乱させられてしまわないこと

 

問題の本質が何であるのか、あなたが見えないままでいることをサタンは願っています。[25] 子供の反抗が家庭に混乱をもたらしている、と考える親がいたとします。実際にそこにはさまざまな反抗があるかも知れません。けれども、本質的な問題は反抗そのものではないのです。子供が反抗し、親が子供と言い争う時(そして家庭をコントロール不可能な状態にしてしまう時)、そこには気づかなければならない一つの問題があります。それは、サタンがその家庭を攻撃しているということなのです。

普通の武器をとってサタンと戦うことはできません。「私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、かみの御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」(第二コリント104節)祈った後であれば多くのことを為せます。けれども祈る前は、祈る以外のことは何も出来ないのだということを覚えておいてください。そして、問題について、あなたの伴侶と共に祈ってください。

 

5. 子育てについて意見が衝突する時

 

子供のしつけについて、親の意見が一致しない時はどうすればいいのでしょうか?聖書が基準にならなければいけません。しつけに関しては、その度合い、厳しさ、そしてやり方などについては議論の余地があると思います。けれども最も大切なのは、それは聖書的でなければいけない、ということです。

 

箴言1324節にはこうあります。「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛するものはつとめてこれを懲らしめる。」 子供に向かってノーと言えなかったり、とても愛しているからという理由でしつけをしなかったりする親は、その不安定な親子関係をさらけ出してしまっています。実際のところそういった親は、「子供の気分を害したり、怒らせたりするのは嫌です。」と言っているのです。子供を扱う上での、この“平和的[26]”な手法は、後になって親と子の両方に悪影響を与えるようになります。こういう方法で育てられた子供は、やがて感情的に甘えの残る大人となり、失望と挫折に満ち溢れた社会ではまともに機能することが出来ません。愛をもって子供を早い時期からしつけなければ、後になって社会がそれをやることになります。そしてその結果は、しばしば厳しく破壊的なものとなるのです。

 

親が子育てをきちんと計画することはとても重要です。ルールや取り決めについて、結婚生活の初期に決めておかないカップルは、後になって状況まかせにそういったルールを設定することになります。そして、そういうルールはしばしば分かりにくく、曖昧なものになってしまいやすいのです。しつけというのは、子供が大人になった時にその一貫した行動を通して“実を結ぶ”ようになるための、親による投資なのだ、ということを覚えておいてください。

 

しつけは、曖昧・定義されていない・時々しか行われない、というようなものであってはいけません。良いことと悪いことの違い、親の言うことを聞かないことによる結果などについて、常に一貫性を持って、一致した状態で、そして明瞭にしつけてください。壁に書かれている冷たく厳格な法律をつくる、ということではありません。しつけは、親の心から子供の心へと伝えられる、“法則[27]”なのです。結果としてこれが愛と権威に対する尊敬の心を生むことになります。しつけの際には、それが言葉による注意であっても、意図的な反抗の結果によるスパンキングであったとしても、無条件の愛が伝わるようにもして下さい。

 

 

分かれること・離れること[28]

 

家庭における霊的な戦いを考える際には、義理の家族についても取り扱う必要があります。あなたの義理の家族は、もしかしたらあなたが愛し、尊敬することの出来る人々かもしれませんし、あるいはあなたが仲良くしたくないと思うような人たちかもしれません。それが扱いにくい人であったとしても、また素晴らしい人たちであったとしても、聖書の創世記224節には 「それ(結婚)ゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」と書いてあります。私たちは、結婚したら、それぞれの父母から離れるようにと言われているのです。

 

ヤコブとラケル

 

義理の家族との関係については、ヤコブの人生から多くを学び取ることが出来ます。また、そこから別れ、離れること について神様の御言葉から知恵を得ることが出来ます。

 

創世記29章で、ヤコブはラバンの娘のラケルと恋に落ちます。イサクとリベカの話がそうであったように、ここでもロマンス・愛・友情・名誉・約束・尊敬などで表現される関係を読み取ることが出来ます。ラケルへの愛と彼女の父への尊敬の念ゆえに、ヤコブはラバンのもとで7年間の労働をすることでラケルと結婚する権利を得ようとします。ヤコブは正しいことをしたように見えます。義理の家族に尊敬を払うのは良いことですし、尊敬をもって接することで良いところを見せたいとあなたも思うことでしょう。

 

7年たって、ついに結婚の夜がやってきました。ラバンがあらかじめ暗くしてあったテントの部屋へと花嫁を連れて来て、結婚式がとりおこなわれました。けれども翌朝目を覚ましたヤコブは驚きました。花嫁はラケルではなく、ラケルの姉のレアだったのです。

 

ラバンにむかってヤコブは怒鳴りました。「騙したな!ラケルのために7年も働いたのに。ラケルのことを本当に愛しているのに、レアを渡すとは。初夜を過ごした以上、レアと結婚してしまったことになるではないですか!」(性関係をもつことは結婚と同じことだったため、後戻りはできませんでした。ですから、ヤコブは正しいことをしたのです。)

 

ラバンはこう説明しました。「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのだよ。知らなかったのかね? 年上の方がいつも先に結婚するのだ。知らなかったとは驚きだ。ラケルを本当に望むのなら、もう7年私のところで働きなさい。そうすればあの娘もお前にやろう。」

 

ヤコブは同意しました。そこでラバンは7年の終わりを待つことなしに、すぐにラケルをヤコブに嫁がせました。

 

親には、自然に子供を思いやり、子供が良い環境にいられることを願う性質があります。ラバンの話は、父性というものが、いかに子供の幸せの妨げや邪魔になり得るのか、ということを示しています。親に子供とその伴侶を公平に扱おうという意思がどれだけあったとしても、実際には自分の子供の幸せが(伴侶のそれよりも)優先してしまうものなのです。ラバンが自分の娘たちのために、自分の名や評判、そして正直さについての評価を犠牲にしようとしたことに注目してください。彼は、ヤコブが善良な人間であったのを見て、自分の娘たちのためにヤコブを利用しようとしたのです。この話は極端な例ですが、厳然とした法則がそこにはあります。あなたの義理の両親[29]にとって、その子供は最愛の存在なのです[30]。そしてあなたがその家族の一員になった後も、彼らは常に自分達の息子・娘が幸せであることを願うものなのです。

 

ヤコブは、ラバンとその家族のもとで20年を過ごしました。聖書が教えるように、別れ・離れることを彼は行わなかったのです。ヤコブの状況は通常のものではなかった、と思われるかもしれません。最初のうちはそうだったかも知れませんが、後にヤコブは金銭的な理由からさらに6年をラバンの家族と過ごすことを選んだのです。このことが、ヤコブの家庭で多くの争いを生み出すことになりました。義理の親は、その子供達にとって最良のことを願うものですが、時にはそれが子供たちの生活への介入となってしまいます。意図は崇高で罪のないものだったとしても、しばしばそれはTurns into meddling.

 

ヤコブの家庭の問題は大きなものでした。ヤコブが、レアではなくラケルに愛情を注いだ結果、二人の妻の間に妬みが作り出されました。ついには、ヤコブはその義理の家族に向かってこう言いました。「状況は困難を極めています。私たちがここを去る時が来ました。」 けれども、ラバンの目から見れば、状況はこれ以上を望めないというほど良い物でした。12人の孫に恵まれましたし、義理の息子は働き者でした。そして、結婚した娘たちも家に残ってくれていたので、空き家症候群[31]に悩まされる必要もありませんでした。けれどもヤコブは大変な思いをしていました。彼は去りたいと思い、時が来たということをラバンに伝えたのです。

 

自己中心的な考えから、ラバンは、ヤコブがもう少し長くとどまるように説得しようとしました。そして不信感が互いの間に芽生えるようになりました。When Laban pleads with Jacob to remain a few more years, he agrees. けれども、ヤコブが家を出ようと計画すると、ラバンはヤコブが罪悪感を感じるようにと仕向けるのでした。ラバンは、ヤコブが二人の関係を利用することで富を増そうとしていると非難し、ヤコブは、「私が来る前には、わずかだったのが、ふえて多くなりました。」(創世記3030節)ということをラバンが思い出すようにしたのです。

 

ヤコブの助けによって利益を受けたのは、明らかにラバンの方です。苦々しさと争いとが双方の間で大きくなっていきました。ヤコブは留まりましたが、33節で自身の気持ちを言い表しています。「後になってあなたが、私の報酬を見にこられた時、私の正しさがあなたに証明されますように。」 言い換えるならば、「私はあなたを信頼しません。あなたの土地で私が栄えたときに、あなたは来て私が不正によってあなたから富を得たと言うのでしょう」ということです。

 

時が経つにつれて互いへの疑いは増していきました。創世記311節には、ラバンの息子たちが、ヤコブがラバンの富を取り去ったことを非難したと書かれています。関係さらに酸いものとなり、もはやそれは始まりの時のように友好的なものではありませんでした。ヤコブは盗人だとの評価を、そしてラバンはずるい人間だとの評価をそれぞれつけられたのです。最終的には、ヤコブとその家族は、さよならの挨拶をすることなしに、夜にしのび去るということになってしまいました。

 

彼らがそこを離れる直前に、ラケルは家にあった偶像を盗み出しました。三日後になって、ラバンが偶像の無くなっていることを見つけた時、彼はヤコブを追いかけ彼に盗みの疑いをかけました。言い争いはやがて、戦いが始まるかのようなレベルにまで達しました。「なぜ、あなたは逃げ隠れて私のところをこっそり抜け出し、私に知らせなかったのか。私はタンバリンや竪琴で喜び歌って、あなたを送りだしたろうに。しかもあなたは、私の子どもたちや娘たちに口づけもさせなかった。」(2728節) さらに、ラバンは自分の神々が無くなっていることと、義理の息子がそれらを盗んだのではないかと疑っているということを、ヤコブに告げました(盗まれてしまうような神に仕えるのは悲しいことです!)。そ知らぬふりをしながらラケルは、その偶像を鞍の下に隠し、その上に座りました。ラバンがテントの中を探しに来た時、ラケルは自分が月経中で、鞍の上から動けないのだと嘘をつきました。その結果ラバンは偶像を見つけることが出来ませんでした。

 

機能不全に陥っている家族とはこのことです!彼らは互いに敵意を抱くようになってしまったのです。なぜでしょうか?ヤコブがその義理の家族と20年間も一緒にいたことが、疑いようもなくその大きな理由です。神様はこう仰せられました。「父母から離れ、妻と共になりなさい。そしてふたりは一体となる。」

 

最後にラバンとヤコブは石を積み上げることで契約を交わしました。ラバンはこう言いました。「この石塚は、きょう私とあなたとの間の証拠である。」「われわれが互いに目が届かない所にいるとき、主が私とあなたとの間の見張りをされるように。」(創世記3148-49節)それは美しい記念碑だったでしょうか?とんでもありません!それは不信のあらわれであり、実際のところは 「汚い盗賊め、私がお前を監視できない時、神が私の背中を守ってくださるように。」 と言っているようなものでした。言うまでもなく、不和による別離が互いへの疑いをもひきおこしたのです。神様が良い目的をもってつくられたことを、ヤコブとラバンは「別れ、そして離れ」 なかった故に台無しにしてしまったのです。

 

中心円として知られる関係が、結婚には存在します。中心に丸があり、その周りを別の大きな円が囲っているを想像してください。中心の部分が、その中心円です。その中心円の中で我々は、個人的な問題、お金の問題、子どものしつけ、コミュニケーションの問題、その他の家庭における問題を取り扱います。中心円の中に入ることができるのは、あなたとあなたの伴侶、あなたの子どもたち、そして神様だけです。その他の人は、夫婦の同意の下に招待されなければそこに入ることは出来ません。例えば、私が牧師として夫婦にカウンセリングを行うなら、夫婦両方からの招待が私には必要なのです。私がどちらか片方の声だけを聞いて軽々しくアドバイスを与えるなら、もう片方を私は侵害したことになるのです。ラバンはヤコブの中心円に飛び込み、ヤコブはそれを放置しました。それが長期的な問題を作り出す原因となったのです。

 

 

離れるということが意味すること

 

神様が私たちに離れるように言われる時、その意味するところは、単に両親の家を出て伴侶の家に入るということではありません。離れるということは(それを無視することで、神様の結婚におけるご計画を駄目にしてしまうような)他の要素をも含んでいるのです。

 

財政的に離れる[32]必要

 

生き残る為には、義理の親からの金銭的な援助に頼らざるを得ない、とカップルが感じることが時々あります。けれども原則としては、出費を切り詰める為に苦労することの方が義理の親の財政援助に頼るよりは良いのです。落ち着くまでの間援助を受けるのはとても便利なことかもしれません。しかし、もしかするとそれは、主に頼る代わりに義理の家族に依存するということかも知れないのです。多くの義理の親たちも、新婚当時に困難を経験しなければなりませんでした。けれどもその困難が、全ての若いカップルが必要とする指導力と独立心を養うことになったのです。箴言の1626節はそれをこう言い表しています。「働く者は食欲のために働く。その口が彼を駆り立てるからだ。」

 

ラバンがヤコブの家庭に過大な影響力を持っていたのは、彼が財布のひもを握っていたことが理由でした。言い換えれば、彼は「金を持つものが支配する」 とうい黄金律を実践していたのです。

 

物理的に離れる必要

 

単純に言えば、物理的に離れるとは、義理の親と一つ屋根の下に住まない、ということです。夫が 「お金を貯めて自分たちの家を見つけるまでは、しばらく僕の親と一緒に住もうよ。」 と言っていたカップルにカウンセリングを提供したことが私にはあります。妻はそれに同意し、それから10年が経ちましたが、彼らは未だに両親と同居しています。彼らにはもう子どもがいますが、貯金はなく、夫はマザコンのように行動しており、妻の方は完全な挫折感を味わっています。さらには、母親と祖母とどちらが最終的な権威を持っているかを子どもが判断できないことによる、子育ての危機を彼女は経験しているのです。

 

一つ屋根の下で共に住んでいる普通の親にとって、孫のしつけに干渉したり、夫婦やお金の問題、そして食事の準備にいたるまでの様々な問題に干渉するのはとても簡単なことなのです。そこでは、義理の親はエキスパートであり、新婚のカップルは見習いです。何事においてもエキスパートが、見習いの前でやって見せるようになるのが当たり前になってしまいます。

 

ある問題について、一組のカップルから相談を持ちかけられたことがあります。この夫婦は、夫側の両親と同居していました。彼はサーファーで、残念ながら仕事よりも波乗りの方が好きな人間でした。ですから、二人が両親から独立するだけの十分なお金をためることは、今までずっと無理なままでした。けれども見方を変えるなら、親が面倒を見てくれているのですから、彼が頑張って独立を目指す理由などそれほどなかったのです。一方で彼の妻は、その状況にいらいらを募らせるようになりました。彼女の姑は、孫のしつけや育て方に関して、口出しをせずにはいられない人でした。子育てについて嫁と姑が争うようになるのは当然の成り行きでした。憤慨した嫁の方は、最後には荷物をまとめ、子供たちをつれて夫のもとを去っていきました。そうなるずっと前から私たちは、親から別離しないことの結果について、彼らに警告を発していました。彼は危険を示すサインを無視し続け、結婚生活をだいなしにしてしまったのです。自分のやるべきことを親任せにせず、自分で自分の必要を満たす責任を彼は果たそうとしませんでした。結果として彼は、彼の妻と子供たちを失ってしまったのです。

 

霊的に離れる必要

 

全てのカップルが、彼ら自身でキリストを内に持つ必要があります。自分たちの霊的な歩みは、自分たちで歩まねばなりません。その結果、両親とは異なる方向に進む必要が生じるかもしれません。もし霊的に成熟した家庭をお持ちなのなら、それは大きな強みです。けれども親のほうで、(感傷的な理由から)同じ教会・牧師・信者の交わりに属することなどを、結婚したばかりの自分の子供に押し付けるべきではありません。子供たちが、自分自身で霊的な決定を下していくのは健全かつ必要とされることなのです。もしあなたが、活気があり、しっかりと聖書を教えている教会に属しているのなら、結婚した子供たちもそこに属するようになるかもしれません。もしそうでないなら、子供たちが自分たちで、主にあって成長していける場所を見つけるのは良いことなのです。

 

感情的に離れる必要

 

家庭の絆が強く、幼少時から家族との感情的な結びつきを植え付けられて育った人がいます。こういった人の場合、結婚における不和が生じた時に、親子間の強い絆に頼ってしまわないように注意する必要があります。「私の伴侶に話すのは大変だから、お父さんとお母さんが何て言うか聞いてみよう。」 罪のない発言に聞こえるかもしれませんが、これが習慣になってしまうと、夫婦の間で真の絆が育まれなくなってしまい、問題を自分たちで解決する能力も身につきません。一度結婚したなら、自分の感情的なサポートを親から自分の伴侶に向けなおす必要があるのです。親の知恵は大きな助けになるかもしれません。けれども、あなたの感情的な安定があなたの両親から来るものであるのなら、それをあなたの伴侶から得るようにしなければなりません。

 

 

あなたの両親と義理の両親とを結びつけること

 

ここに挙げるのは、結婚したら覚えておくべき、義理の両親と自分の両親とに関するいくつかの原則です。

 

両親や義理の両親が、あなたの伴侶を批判することを決して許さないこと

 

過去に、私の母が私の妻を好きではないという時期がありました。これは多くの母親に当てはまるケースだと思います。彼女たちは、息子はあまりにも完璧だから、息子にふさわしい女性などいるはずがないと考えてしまうのです。私の母は、よくダニータの過ちや弱い部分を意地悪な言い方であげつらったりしました。クリスチャンになる前は、私は母が言うままにしておき、多くの場合はそれに同意したりしていました。ダニータは侮蔑と自衛の必要を感じるようになりました。クリスチャンになった後、私はサタンのずる賢い戦略に気づくようになりました。母が指摘したダニータの弱みは、理に適ったものだったかもしれません。けれども、その結果は家庭内にあってとても破壊的なものでした。

 

幼い信者ながら、私は神様が私を家庭における司祭・供給者・保護者として造られたのだということを知るようになりました。誰にも-たとえそれが身内であっても-私の妻を批判することを許すべきではないという事実に対して、私の目は開かれました。ですから、再度私の母がダニータについて話し出したとき、私は「お母さん、もう僕のお嫁さんに対する批判は二度と聞きたくないよ。分裂を起こす原因になるし、神様が私に聞くように望んでおられることではないから。だから、もう二度とやらないで。」 と言いました。

 

子供は父母を敬わなければならないと信じている私には、母を叱責するのは難しいことでした。けれども、私の世俗的な生き方が、そういった批判が出てくることを許す原因になっていたのだとすれば、クリスチャンになったのですからそれに対処するべきでした。結果的によかったのは、それを通して私の母と妻との関係が新しくされたことでした。時がたつにつれて、母はダニータを親友のように感じるということを明かしてくれるようになりました。母の批判をそのままにしておいたなら、今日あるような母と私の妻との友好関係は、決して築かれることはなかったとのです。

 

両親・義理の両親が、あなたがそうする前に、あなたの家庭に関する決定を下すことを決して許さないこと

 

中心円の内側における意思決定は、あなたとあなたの伴侶、そして主とが一緒になって決められねばなりません。カップルの同意があるならば、義理の両親からのアドバイスを受けることはできますが、両親の決定が押し付けられるようなことがあってはなりません。

 

あなたの子供についてあなたが下した決定を、両親が覆してしまわないようにすること

 

子供に関する問題は、しつけ、食生活、権利、スケジュール、テレビなど多岐にわたります。

 

結婚に関するミニストリーを行っている友人が私にはいるのですが、彼らが最初の子供をもうけた後で子供の祖父母の家に行った時のことを話してくれたことがあります。子供が悪さをしたので、父親は「行儀よくしないとお尻をぶたれることになるよ。」と言いました。けれどもそこで、祖父の方が子供を抱き上げてこう言ったのです。「私の孫をぶつなんていうことは、私の家ではゆるさんぞ!」 父親は行って、祖父の腕から子供を奪い取りこう言い返しました。「そういうことだったら、お父さんの孫はもうここには来ません。」

 

これらの会話がなされている間、女性の二人は台所で針のむしろに座っているかのような状態を経験していました。その後、父親が妻を呼び、「行こう。もう帰るよ。」と言いました。そして彼らはそこから離れたのです。それはとても悲しい状況でした。

 

クリスチャンの父親は、彼の中心円が侵害されたと感じ、それを守る為の決定を下さなければならないと思ったのでした。彼はこう考えました。「ここで立ち上がらなければ、私の義理の親が、私や妻が下した決定を無視し始めて、私の家を支配するようになるかもしれない。」 幸い、祖父の方は一時間ほどあとに電話をしてきて、謝罪しました。今までになく良い形へと彼らの関係は修復されたのです。

 

ご両親や、義理の両親との時間を楽しんでください。けれども、引かなければいけない線がそこにはある、ということも知っておいてください。あなたとあなたの伴侶、子供たち、そして主が一つの独立した[33]家族を構成しているのです。親が知恵やアドバイスを提供するのは構わないことですが、それが子供夫婦の上に強要されるようなことがあってはいけません。

 

 

あなたの友達 - 陰口の危険性

 

「陰口をたたくものは親しい友を離れさせる。」 箴言1628

 

友人が人の結婚生活を割ってしまうことがあります。良い意図がそこにはあるのかも知れませんが、、話すべきでないことを話すことによって、不一致の種を彼らは蒔くのです。友があなたの伴侶について悪く言うことを決して許さないでください。私たち皆が、時々は失敗を犯すものですが、あなたの伴侶の悪口を言うことによってあなたを慰めようとする友がいたとしたら、その人が実際に行っているのは関係を癒すことではなくて、さらなる分離を引き起こすことなのです。

 

箴言の179節にはこうあります。「そむきの罪をおおう者は、愛を追い求めるもの。同じことをくり返して言う者は、親しい友を離れさせる。」 結婚生活において問題が生じる時、友は批判を繰り広げることによって、問題の修復を助けるのではなく、妨げてしまうことがあるのです。良い意図を持ってはいるけれども、霊的に未成熟な友は、あなたと一緒になってあなたの伴侶に敵対することによって、二人の間の裂け目がふさがるのを妨げてることになるのです。あなたの伴侶に対する悪感情をさらにかきたてるような友は、おせっかいで無分別であると言えるでしょう。

 

悪魔の計画に対して賢くあってください。敵は非常に巧妙なのです。友があなたが伴侶について批判的になるような原因をつくりだし、あなたをその友のもとに引き寄せようとするときには、注意を払ってください。もしかしたら、そのカウンセラー気取りの友人には未解決のまま残されている、人間関係上の問題があるのかもしれません。もしかしたら、あなたもその友人も気づかないままに、同類相憐れむ ような状態を作り出しているのかもしれません。あなたが、あなたの伴侶についての友の悪口に耳を貸すとき、あなたは非常に危険な状態にあるのです。そういったことが起こらないようにしてください。あるいは、その友に昔起こったことが、今のあなたにも起こっているのかもしれません。そして、その友はあなたの伴侶の問題について、非常に的確な指摘をすることが出来たかもしれません。けれども、こう言ってください。「我々のために祈ってください。主が我々の人生の中にはたらいてくださる必要があるのです。」 主を信じる必要があるのです。そうしなければ、よき友を装った悪魔がやってきてさらなる分裂を引き起こすことを目にすることになるでしょう。

 

 

陰口を押さえ込む方法

 

結婚しているカップルが、友人を取り扱う上で実際的だと思われるいくつかのステップを見てみましょう。

 

単独で異性との交友関係を持たないこと

 

結婚の外で異性と友人関係を新たに持つ理由はどこにもありません。また、結婚前にすでに構築されていたあなたと異性との交友関係に、あなたの伴侶を結婚後に参加させない理由もありません。この原則をカップルたちに今まで教えてきましたし、それを無視したカップルが支払うことになった代価も私は見てきました。今は離婚してしまった一組の夫婦について述べてみます。

 

夫の方は、ハワイでも有名なレストランのウェイターでした。妻の方は、レストランで彼にちょっかいを出しては興味を引こうとする女性たちのことについて不満を漏らしていました。彼の方ではそれを歓迎するようなそぶりもあったのですが。彼女がレストランにいる時でさえ、彼女は後ろの方で静かに立って、彼を待たなければ為りませんでした。けれども彼は、彼女を他の女性たちに紹介したりするようなことはしませんでした。

 

「それは危険だよ。」 と私は彼らに言いました。「彼は、あなた(妻)を他人に紹介する必要があるでしょう。彼が他の女性を知っていて、それが彼の友人なのなら、彼はあなたを連れて行って “ところで、この人が僕のお嫁さんなんだ。”というべきですよ。」 そうすることによって、異性の友達たちはすぐに、二人が愛し合っていて、結婚していて、一体であるということを知ることができるのです。

 

中心円に、親しい友達を入れてしまわないこと

 

親や、義理の親との関係について先ほど述べたように、あなたの中心円からは、友達をも遠ざけておく必要があります。

 

あなたの伴侶の悪口に加わらないこと

 

悪魔のやり方に対して、賢明である必要があります。自分の伴侶に関する批判に耳を貸したり参加したりするのは、夫婦間の関係をもっとも素早く蝕む原因となります。誤った方向に向いている友は、あなたを建て上げて祈る代わりに、あなたの伴侶の間違いを指摘することで、あなたを慰め助けようとするのです。それに同意してあなたの伴侶を悪し様に言うのは、問題の解決には何の役にもたたないばかりか、逆にそれを悪化させることになります。

 

私たち皆が家族や友、そして親族と共に最大限楽しい時間を過ごしたいと願うものです。けれども、それが結婚における調和を犠牲としてしまうようなものであってはいけません。私たちに最も近しい人たちは、私たちの感情や心の琴線をもてあそぶ事もできるのです。彼らはそれを知ってはいないかもしれません。けれども、知っている可能性だってあるのです。敵のやり方を知っておく必要があります。敵は良いはずのものを使って、悪事を行います。イサクとリベカのように、子供たちが夫婦の関係に楔を打ち込むようなことを許してはいけません。そして、ラバンとヤコブのように義理の親からの助けが、助けどころが頭痛の種になってしまう、というようなことも避けなければなりません。子供は家をいつか出て行きますし、友は去っていきます。あなたの伴侶だけがあなたと共に残り続けるのです。人生を共に過ごす伴侶の喜びを一番とし、そのために私たちの身の回りに起こる問題や、他の人々との関係とを注意して取り扱うようにしてください。

 

 

第四章

良い喧嘩をすること

 

「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」 エペソ426

 

 

ボクシングのリング

 

チャック・スウィンドルの子供時代に経験にもとづくお話があります。結婚における敵の戦略に立ち向かう上でとても重要な教訓がそこから得られると思います。

 

 

「これを聞くと驚かれるかもしれませんが、私はボクシング場の隣にある家で育ったんです。そうです、ボクシング場の隣です。予選は平日の夜に行われるのですが、大きな試合はいつも土曜の夜遅くの11時半から夜中の1時ぐらいの間に行われていました。公平な試合というのはそこにはありませんでした。11歳のバンタム級選手、ウォルター級の父親、そして準ヘビー級の母親の試合だったからです。それはちょっとした見ものでした。

 

試合が始まると、スウィンドル家の三人の子供たちはトイレに集まり、明かりを消して窓を開け、それを見物するのでした。私の母はポップコーンを作り、コーラとココアと一緒にそれを出してくれました。それは、「ハワイ・ファイヴ-0」[34] 「コジャック」[35] そして 「ハザード郡のデューク一家」[36] を全部足したものよりも面白い見世物でした。東ヒューストンで見られる最高のショーがそれでした。常に予測できぬ、それでいてエキサイティングだったのです。正直なところ、その家族が引っ越すことになったとき私は悲しく思ったほどでした。」

 

 

私たちの周囲にすんでいる人々は、同じように窓を開けて私の家で行われていることを見物しているのだろうかと私は考えてしまいます。私たち夫婦は、自分を表現し、要点をまとめ、そして感情を表に出すことがあまり上手ではありません。意思疎通が上手くいかないとき、争いが起こります。皆さんの中のある人たちはこう言われるかもしれません。

「私たちは結婚して30年になるけれど、一度も言い争ったことはありません。」 

それを聞いたなら私はこう考えるでしょう。

「この人たちの脈拍を確認した方がいいぞ。30年間この人たちは息をしていたのだろうか?」

 

30年間といわず、30日間ですら私たち夫婦は言い争わずにすごしたことはありません。けれどもキリストにあって我々が成熟していくに連れて、建設的に一致しない ことを私たちは学んできました。言い争うかわりに、情熱的に議論 するようになったのです。キリストにあって成長するにつれて、不一致はあってもそれを聖書的なものに留めておくことを私たちは学んだのです。

 

どうすれば“良い喧嘩”をあなたの伴侶と行い、なおかつそれを聖書的なものとすることができるでのでしょうか?まず最初にいえるのは物理的に争うこと(殴り合いなどの肉体的な喧嘩)は問題外だということです。良い喧嘩というのは、意見の相違による言葉による争いです。聖書的な争いというのは、汚いものであってはなりません。

 

あるオリンピックのボクシングの試合で、選手の片方が、審判が休憩時間を宣言したと勘違いしてコーナーの方に戻ろうとしたのを私は見たことがあります。もう一方の選手はそれに見て背後から彼に襲いかかり、彼をノックアウト寸前にまで追い詰めました。これは闇討ち[37] と形容されるべきもので汚いやり方です。マイク・タイソンは、エヴァンデル・ホリフィールドの耳を噛みちぎろうとして失格になりましたが、これも本当に汚い喧嘩の仕方なのです。

 

言い争いが白熱したものとなるとき、多くの人が、ベルトの下を狙う[38] ような行動をとります。クリスチャンのカップルでさえ嫌味や意地悪な言葉を口にし、相手を引きずり落とそうとすることがあるのです。私がカウンセリングを行ってきた何組かのカップルは、喧嘩のたびにひどい罵り合いに陥ることを告白してくれました。空間を氷のような敵意で満たす沈黙による攻撃は、また別の反則行為です。私の育った家庭ではこの方法がよく使われていました。私の義理の父は敵意に満ちた沈黙を家中に充満させ、陰気で敵意に満ちた空間をつくりだすことがよくあったのです。それが数日間も続くことが時にはありました。これは子供たちには残酷なことです。そういった状態にある家に帰ってくるのはとても怖いことです。私の家族はクリスチャンではないのですが、こういったことがクリスチャン・ホームにも起こっていることを私は知っています。

 

 

カップルが争う理由

 

喧嘩というのは聖書的なものなのでしょうか?なぜ夫婦は争うのでしょうか?クリスチャンの夫婦はいつまでも幸せに暮らすはずではないのでしょうか?

 

私たちが対立に陥り、言い争うようになるのにはいくつかの理由があります。まず第一に、カップルが最初にお互いを知り始めるとき、それぞれが自分を実際よりも良く見せようと頑張るということが挙げられます。これによって、様々な度合いでの偽りが二人の間に起こります。第二に結婚する前の二人の関係はそれほど強制力を伴わないものだということが言えます。その関係に留まることもできますし、そこから離れることだっていつでも可能なのです。けれども一旦結婚してしまうと、現実がそこに入り込みます。二人の関係はそこで試されるのです。虚飾はもう通用しません。決定は下され、逃げ出すことも、車に乗って走り去ることももうできないのです。

 

結婚前につきあっている段階だと、本当は好きではないことを我慢することも比較的容易かもしれません。相手に気に入られるためになら我慢することも簡単でしょう。本当は鬱陶しいと思うようなことを平気で受け入れるかのような振りもできます。そしてすべてが上手くいっているかのように見えるのです。

 

妻のダニータと付き合う前に、私もそういうことをやったのを覚えています。5人家族だった彼女の家には洗濯機と乾燥機がなかったので、洗濯物がよく山積みになっていました。それで彼女が衣類をコインランドリーまで持っていって洗濯しなければならないことがよくありました。ボーイフレンドの私としては、彼女と一緒に行く以外にやることがなかったので、-時には3時間以上かかることもあったのですが- 私も彼女と一緒にコインランドリーまで出かけるのでした。彼女と時間を共に過ごしたかったのです。けれども、服が洗われるのを待ち、洗濯物をたたみ、そして仕分けるといった作業全てが実際のところは大嫌いでした。

 

結婚したあとで、彼女があるときこう言いました。

「コインランドリーに行って、洗濯をしましょうよ。」

わたしは、うめき声をあげました。正直な気持ちが出てしまったのです。

彼女はこういいました。

「洗濯をするのが好きだと思ってたのに。」

「いいや。」 と私は告白しました。

「我慢してたんだ。本当は好きじゃなかったんだよ。」

そして、現実がその偽りを粉砕してしまったのです。

 

男性の方は、デートのときに付き合っている女性と海岸に行くことがあるかもしれません。男性の方がサーフィンをやって、それを女性は海岸から見物するのです。結婚してから、その男性は妻となった女性にこう言います。

「ねぇ、海に行こうよ。」

そして彼女はこう応答します。

「ただ砂浜に座ってあなたがサーフィンするのを見るだけなんて嫌だわ。その間何をしろっていうのよ。」

びっくりした男性はこう聞き返すかもしれません。

「昔一緒に行ったときには、君は僕がサーフィンをやるのを見るのが好きなんだと思ってたけど?」

そして彼女は正直な気持ちを告白するのです。

「我慢してただけなのよ。」

 

恋愛段階における虚構が問題となるのは、洗濯やサーフィンのような軽い話の時だけではありません。例えば、結婚前はリーダーシップを取るのに非常に積極的だった男性のお話があります。霊的な分野においても他の場面でも、とても責任感のある人のように彼は見えました。そして彼と付き合っていた女性はこう思ったのです。

「こんな人と一緒になりたいってずっと思ってた。彼ってすごい!」

けれども結婚式のあとで、彼の真実の姿が見えるにつれ、彼女は幻滅してしまうのです。

「素晴らしいリーダーのような人だと思ったけど」 彼女は残念がります。

「物事をリードしてくれると思ったのに、今じゃ私が彼のお母さん役をやっているみたいなんです。」

 

こういう場合に二人の関係が争いを通してもつれてしまうことは、容易に想像がつくと思います。ですから大事なのは争いにどう対処していくのかということなのです。互いの人格を攻撃し、口汚くののしりあうような醜い争いは、敵が好んで使う方法です。やがてはそれが結婚を滅ぼしてしまうことになります。土台はすぐには崩壊しませんが、こういった醜い争いを続けるならば、土台も徐々に弱いものとなっていくのです。

 

土台が弱くなる過程は、波際に建てられた家に例えられるでしょう。嵐がくると、海岸に高波が押し寄せます。家の土台にその波が打ち当たるとき、侵食が起こります。長期的には、侵食によってその家は崩壊して海の中に沈んでしまいます。一度にこれが起こるのではなく、少しずつ起こっていくのです。

 

二つの独立した個性が一つになるときには衝突は避けられないものだということを、理解しておく必要があります。それは自然なことなのです。二つの急な川の流れが合わさって一つになるとき、交わる点で渦巻きが起こります。結婚においてそれを押さえつけ、そしてその力を利用しようとするためには、神様からの御言葉が必要なのです。クリスチャンの夫婦は、争いの中にあっても聖書的な姿勢と態度を保つことができるのです。争っている時にも霊的でいる、ということを学ばなければなりません。霊によって歩み互いの不一致に向き合う時、それは互いの距離を縮めることにもなるのです。

 

争いにはダイナマイトのような効果があります。内側に破裂させることも、外側に爆発させることもダイナマイトには可能です。建物をダイナマイトによって内破させると、瓦礫は一箇所にまとまるように崩れます。逆に外側に爆発させるならば、破片があちこちに飛散するということにもなります。同様に、悪魔が望んでいるのは争いによって結婚を外側に爆発させることなのです。悪魔は争いを用いて夫婦を分かとうとします。神様は争いを用いて二人をさらに近づけようとされるのです。

 

争いを取り扱うための聖書的原則

エペソ人への手紙42532節にはこう書いてあります。

 

「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちは体の一部分として互いにそれぞれのものだからです。

怒っても罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。

悪魔に機会を与えないようにしなさい。

盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。

悪い言葉を、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。

神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、購いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。

お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなた方を赦してくださったように、互いに赦しあいなさい。」

 

夫婦を互いに近づけるための7つの原則をここで見ていきたいと思います。

 

 

互いに真実であること

 

ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちは体の一部分として互いにそれぞれのものだからです。(エペソ人への手紙4:25

 

嘘を言わず、互いを敬いあうのは大事なことです。ゼカリヤ書の816節には、

「これがあなたがたのしなければならないことだ。互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行え。」

と書かれています。

 

問題について結婚しているカップルが話し合うとき、そこにはお互いが100%真実を語っているということに対する確信がなければいけません。正直さを保つという誓約をしないままに結婚してしまうカップルが中にはいます。そして年を経るにつれて正直さが互いの間で持続しないことから、不信感がたかまっていきます。もし、こういった状態があなたの結婚に当てはまるのなら、今が正直であることについて夫婦で合意する機会です。互いに正直であろうという条約を二人の間で結んでください。信頼が壊れてしまっているとき、敵はそこに攻撃のチャンスを見出すからです。

 

二人の関係で正直であるというのはどういう意味をもつのでしょうか?正直であるということは、あなたがあなたの妻と一緒に歩いていて、通り過ぎる女性に目を奪われて不純な思いを抱いた時に、それを全てあなたの妻に告白するということではありません。それは結婚における正直さが意味することではありません。時々サタンは、私たちの前に誘惑をもってくるのです。けれども、私たちの古いからだが思い浮かべたり、悪魔が投げつけてきたりすることによる全ての思いを、私たちの伴侶に告白する必要はないのです。

 

 

正直であるということは、一時的だったり、うわべだけだったりする問題よりも、ずっと深いところにある問題に関わることです。私たちの根本的な性質・性格といったものにそれは関わってくるのです。人は、不真実な性質を選ぶこともできます。エレミヤ書の95節にはこうあります。

「彼らはおのおの、だまし合って、真実を語らない。

偽りを語ることを舌に教え、

悪事を働き、依然として悔い改めない。」

偽りを語ることを舌に教え と書かれているのに注目してください。

子供の頃、私は嘘をつくのがとても上手でした。親のしつけがあまりない家庭に育ちましたので、私の嘘をつく能力は芸術的なまでに進歩していました。高校卒業前の最後の一週間に、私は学校をサボって友人三人とサーフィン旅行に出かけました。学校側が私の欠席を知ったあとで、教頭先生が私を呼びつけてこう訪ねました。

「どこにいたんだ?」

私は、彼の目をまっすぐ見て、純粋さを装いながらこう答えました。

「家にいて、姉の子供たちの面倒を見ていたんです。」

「わかった。もういい。」 そう言って、彼は私を解放してくれました。

 

彼が私の3人の友人を尋問した時、友人たちはサーフィンに行っていたのだと、真実を話しました。

「ビルが運転したんです。」

そう彼らは付け加えました。けれども教頭先生はそれを信じませんでした。

 

「私の目をちゃんと見て、真実を言う人間のことを私は尊敬する。お前たちは嘘をついているに違いない。」 彼はそう言って私を弁護したのです。

 

けれども、ほどなくして彼は真実を知りました。彼が私を再度呼びつけたとき、彼は私の方を見ようともしませんでした。

「お前は退学だ。」

そう彼は宣言しました。

「お前を信じていたのに、嘘をつかれていたというのが今になってわかったよ。」

こうして、卒業を一週間前にして私は高校を退学になったのです。

 

私たちは、自分自身に嘘をつくことを教えるか、真実を語ることを教えるかのどちらかを選ばなければなりません。どちらを選ぶかは、完全に私たちの力にかかっています。結婚関係において相互理解が不足しているのだから、真実を少し曇らせるくらいのことは構わないのだと言う人がいるかもしれません。そうすることで家庭内で平和を保てるじゃないか、と。けれども、新生したクリスチャンはもっと高い基準を持っているのです。聖霊様と真実に逆らって嘘をつくべきではありません。ヨハネの1613節にはこうあります。

「しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。」

 

私たちのうちには真理の御霊がおられて、すべての真理へと導きいれてくださるのです。私が自分の妻に偽りを言うなら、御霊を悲しませてしまうことになります。私の妻は、私のことを主に委ねているので、私が真実を話すということを知っています。同様にして、私も妻のことを主に委ねているので、彼女が私に対して真実を話すということを知っています。彼女がそうするように、私も彼女とイエス様の関係を見ています。イエス様が私たちの真実さの土台なのです。私たちが御霊から離れてしまうならば、私は真理からも離れてしまうのです。

 

二人の関係は、偽りやずる賢さとも無縁でなければいけません。イエス様はナタナエルについてこういわれました。

「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

偽りのある人というのは、真実をごまかしたり、隠したりする人のことです。イエス様はナタナエルを見て、実際のところはこう言われたのです。

「この男にはずる賢いところがない。彼は嘘をうまくついたり、真実を隠したりすることのできる人間ではない。」

 

 

私の妻のダニータについて、私も同じことが言えます。彼女のうちには偽りがありません。彼女はとても正直な人です。偽りがない、というのは私たち皆が望むべき性質なのです。イエス様は私たちが、こどもたちのように ならなければいけないと言われました(マタイ18:3)。普通の子供たちには偽りがありません。欺くことを子供は考えないからです。

 

小さな子供が、何かを隠そうとしたり、罪のない嘘をついたりするのを見たことがあるでしょうか?ゴルフボールをその小さな片手に隠して、

「どっちの手にボールがあるかわかる?」

と言いにくるような子供です。もちろん、私たちはボールが無いに決まっているほうの手をわざと選びます。大喜びして、ボールが入っている方の手を開いて子供はこう歓声をあげます。

「こっちでした!」

そして私たちはこう言うでしょう。

「わぁ、見事にだまされちゃったなぁ。」

子供は欺きというものを理解していないのです。

 

私の息子のビリーがまだ小さかった頃、彼がマシュマロの袋に手を突っ込んで、マシュマロを両手に握り締めてドアから出て行こうとしたことがありました。私はその時いすに座って本を読んでいたのですが、彼の手に白い粉がついているのに気づき、彼を呼び止めました。

「おい」

ドアから出て行こうとする彼に呼びかけると、彼はそこで凍り付いてしまいました。

「こっちにおいで。その手の中に何があるの?」

 

「何にもないよ。」

彼はそう言いました。

「見せてごらん。」

彼はそこでこぶしを上にあげました。指の間からマシュマロがはみ出ているのが見えました。

「何を持っているんだい?」

芳しくない状況を前にして、半分罪悪感が混じった笑みを浮かべながら彼はこう告白しました。

「まちゅまろだよ。」

その仕草がとても可愛かったので、私は彼にマシュマロを持っていかせたのでした。

 

真理をぼやかしてしまわない、ということについては、私たちは子供のようである必要があります。聖書にはこう書いてあります。

「幸いなことよ。

酒が、咎をお認めにならない人、

心に欺きのないその人は。」(詩篇322)

真実を尽くすことによって、あなたの伴侶を敬ってください。

 

時々、夫婦の片方が過ちを犯して、もう片方をひどく傷つけてしまうことがあります。主の前で、そして傷ついた側の前でそれを悔い改めたあとで、

「悔い改めたのに、どうして彼(彼女)は私のことを赦してくれないのだろう?」

と不思議に思うことがあるかもしれません。こういったことは、赦しの問題ではなく、信頼の問題なのです。信頼は勝ち取るもので、建て直される必要があるのです。これは自動的には起こりません。時間がかかるのです。

 

 

反則行為を避けること[39]

 

「怒っても、罪を犯してはなりません。」 (エペソ人への手紙4:26

 

パウロが、怒りそのものは容認して、怒りによって罪をおかすことを認めていないことに注目してください。時々人は怒りそのものを封じ込めようとします。これは、噴火直前の火山を作り出すようなもので、ちょっとしたきっかけで大爆発が起こることになります。怒ることはしても、怒りによって罪を犯すのは避けられなければいけません。

 

自分の怒りが罪かどうか、どのようにしたらわかるでしょうか?私は過去に、怒って物を投げつけたり、壊したり、ののしりあったり、皮が破けるくらい壁を殴りつけたりする夫婦たちとお話しをしてきましたが、こういったケースが怒りが罪を犯させている例だと思います。怒りがその人を支配してしまうならば、それは罪なのだと言えるでしょう。こういった行いの後には、多くの修理が必要になってきます。壁や家具の修理だけではありません。自分の罪を悔い改めなければならないのです。夫婦は互いにこういった怒りを避けるべきです。互いのたましいを傷つけることになるからです。問題に対処するためではなく、相手の人格を攻撃するための憎しみに満ちた言葉などは、禁じられる必要があります。

 

暴力も決して使わないでください。あなたの伴侶をたたいたり殴ったりするならば、その相手を再び自分の側に立たせるのが困難を極めることになります。聖書の箴言1814節にはこう書いてあります。

「人の心は病苦をも忍ぶ。

しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。」

体の病気は耐えることもできます。けれども、言葉や肉体的な暴力を相手に加えるなら、その相手が立ち直るのはとても大変なことなのです。箴言の1819節にはこうあります。

「反抗する(英語では傷つけられた)兄弟は堅固な城よりも近寄りにくい。」

非常に守りが堅固な城と、その城を陥とすのに必要な労力を想像してみて下さい。大変な困難であることは容易に想像がつくと思います。けれども聖書は、その城を征服する方が、傷ついた伴侶を再度勝ち取るよりも簡単だと書いているのです。

 

自分の手で打ちのめしてしまった伴侶の心を再び勝ち取るためなら、何でもするという人もいることでしょう。けれども、それは主のためにこそ為されなければならないということに心を留めておいてください。主の前にそれは正しいことで、その理由だけが純粋で、永続的な結果をもたらすものなのです。それ以外の理由による行いは、長続きすることはありません。望むべきは、主にあっての悔い改めからくる永続的な変化なのです。過去に傷つけてしまった伴侶を再び勝ち取るということは、忍耐を必要とはしますが、一時的な目的に過ぎません。神様に触れていただくことによって、人生が変えられるところから来るものなのです。

 

私の場合、妻を再び勝ち取るのに約一年かかりました。その間私がずっと

「彼女の心を再び勝ち取るのが私の使命だ。」

と考えていたわけではありません。

実際のところは、私が神様を第一にして、神様の望まれるような人であろうとしていたときに、その間接的な結果として起こったことでした。その時は私はまだその聖書箇所を知らなかったのですが、

「神の御国とその義を第一に求める」

ことを私はやっていたのでした。主だけが生きる目的に値するお方なのだということを知っていたからです。主は真実なる方です。色々な道をそれまでに試してみましたが、すべてが行き止まりでした。結婚生活もひどい状態だったときに、私は主のもとに来ました。私の妻は私をまったく信用していませんでしたので、私のやることをただながめているだけでした。けれども、やがて彼女はこう考えるようになりました。

「彼は変わったわ。子供との接し方がよくなったし、行動の仕方も違う。けれどもこの結婚はやっぱり嫌だし、彼のことも嫌い。イエス・キリストなんてぜったいにごめんよ。」

幸いなことに、神様は私に働きかけておられたのと同時期に、彼女の心にも働きかけてくださっていたので、一年ほど後には彼女もキリストを自分の人生にお招きしたのでした。

 

常に争いは解決しておくこと

 

「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」 エペソ426-27

 

争いを、対処しないままで放っておかないでください。言い争いが二人の間にあるのなら、二人がそれについてちゃんと話し合い(時には言い争い)、解決に持っていくための時間と場所をちゃんと決めてください。小さな争いを軽視してはいけません。そういった小さな分裂が、やがてきのこ雲のような大きな争いの原因になることもあるからです。問題は小さいのだから、追求する価値はないと思われるようなこともあるかもしれません。けれども、あなたの伴侶にとってはそれは頭痛の種で、やがて二人の間で癌になる可能性をはらんでいるかも知れないのです。悪魔は、解決されていない争いを使って様々な悪だくらみを計るのだということを覚えておいてください。

 

時間の都合上、その場で問題に向き合えないこともあるでしょう。そして、あなたはこう言うかも知れません。

「それについては、今は話せないよ。」

そして、あなたの伴侶はこう言い返します。

「じゃぁ、もういいわよ。」

これは良くないことです!しっかりと話し合わなければなりません。さもないと小さなひび割れが、やがては大きな裂け目へと成長することになりかねません。問題にしっかりと向き合うための時間と場所を決めてください。

 

争いを解決するということ自体に合意できないなら、それが壁のレンガの一つとなり、やがてその壁が二人の間を分かつようになります。問題を解決しないままで置き去りにすることを続けていると、月日が経ったときに、壁に囲まれてしまって互いから孤立してしまうことになってしまうのです。

 

過去数年間は、二人の間で持ち上がった争いの全てを、私たち夫婦は解決してきました。二人は常に合意してきた、ということを私は言っているのではありません。けれども、争いに対して私たちは対処し、それを解決してきたのです。合意でなくても、解決に至ることができるならば、あなたの心の温かさや、伴侶に対する愛情はもっと大きなものになるでしょう。

 

「日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。」

 

こういう言い訳を皆さんは決して使わないでください。

「そんなことは些細なことだから、放っておこう。」

「今は時間がないよ。それに、時間をとって話し合っても、延々と議論が続くだけで欲求不満が溜まるだけじゃないか。」

聖書には、問題にすぐ対処するようにと書いてあります。日が暮れるまで憤っていてはいけないのです。

 

では、これは夜中まで起きていて争いを解決しなければならない、ということなのでしょうか?夜に解決できないのなら、その翌日か、少なくともその週に時間をとってください。時間まかせにして放ったらかしにしたり、忘れてしまったりしてはいけません。

 

 

問題解決に向けて協力すること

「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」 (エペソ人への手紙4:28

 

もし私が、批判の専門家で懲戒に長けていたとして、私の妻が耳にすること全てがそういう内容のことだったとしたら、私は何の価値も彼女にもたらしていません。必要なのは、問題の解決方法であって、その状況に対する助けの手なのです。私のやることが批判だけだったら、彼女は耳を閉ざして何も聞かないようになってしまうでしょう。そして彼女はこう考えるに違いありません。

「またこの人の批判が始まった。私は何一つ正しくやれないんだわ。何をやったって彼を満足させられないのよ。」

そして、これが私たちの思考のパターンとなり、やがて私たちがお互いを見るときの視点へと定まっていくのです。

 

伴侶と問題を取り扱う時は、あなたの伴侶をサポートして、問題を解決するという姿勢を保ってください。上に挙げた聖書箇所は、問題については触れていません。むしろ、人の生活におけるパターンについて述べているのです。使徒パウロは、エペソに昔は盗人だったけれども、救われて今はクリスチャンである人々がいたと述べています。パウロは、

「盗むのをやめなさい!盗人であることをやめなさい!盗みは悪いことです!」

とだけ言うのではなく、

「盗むことを今はやめたのだから、建設的なことをやりなさい。お金を稼げるように労苦し、必要のあるものに分け与えなさい。」

と教えたのです。しばしば、クリスチャンは、「やってはいけない」 ことの多い人々であると見られることがあります。けれども現実には、クリスチャンにはたくさんの 「やるべきこと」 があるのです。

 

自分の性格が、前向きか後ろ向きかを知るための性格テストをやってみます。自分の人生の中の一日を見てみる必要があるのですが、私が実験台になって、結婚初期の私のある一日へと時間を巻き戻してみます。

 

サーフボードを作るのに一日を費やした後で、私は家に帰ってきてこう聞きます。

「俺のサーフィン用の海水パンツはどこだ?」

 

「いつも置いてある場所よ。シャワー室の中。」

そうダニータが答えます。

 

それで、私は自分のパンツをはいて日が暮れるまでサーフィンに出かけます。暗くなって波が見えなる頃になって、ようやく私は家に帰ってきます。そしてこう聞きます。

「晩飯は?」

 

ダニータは私にこう言います。

「家をずっと掃除していたのよ。だからご飯を作る時間はなかったの。掃除機の調子が悪くて、なんとか直そうとしてたの。子供たちのせいで頭がおかしくなりそうだったわ。」

 

「俺は腹がへってるんだ。」

私はそう文句を言います。

「俺は一日中働いて、ようやく家に帰ってきたんだから、今食べたいんだよ!」

 

・・・自分の人生の一部を再生して見せるのは恥ずかしいことです。勝手で自己中心的だった自分を思い出すからです。

 

主は、私たちの本当の性質を私たちに見せることができます。ダニータは3人の子供たちの面倒を一日中見ていました。2歳児、5歳児、そして7歳児の子供と10時間閉じ込められて話の相手をしたことがあるでしょうか?興味深い会話というのはあまりできません。それに加えて、彼女は壊れた家電と散らかった家の面倒も見なければなりませんでした。そこに私が帰ってきて、「晩飯は?作る時間ぐらいあっただろう?」 という質問で彼女をさらに困らせたわけです。

 

文句を言う代わりに、彼女を励ましてこう言うこともできました。

「ねぇ、一日どうだった?」

彼女が、その破滅的な一日について話してくれたなら、彼女を落ち着かせるためにこう言うこともできました。

「そりゃひどい。ここに座っててよ。僕が晩御飯をつくるから。皿も僕が洗うよ。」

問題の上にさらなる問題を積み上げたり、彼女のやらなかったことをあげつらう代わりに、私は彼女の理解者となって、助けの手をさし伸ばすこともできたのです。

 

小切手帳や、銀行の明細、そして金銭的な問題というのが、我が家では常に緊張とストレスの原因でした。批判ではなくて、互いに解決方法を提示しあうことで、夫婦は全面戦争を避けることができます。

 

お金をめぐっての、ありがちな争いは、夫がこういう風に言うことで始まります。

「新しい服を着ているね。お金がない時になんでそういう贅沢をするんだ?」

 

「お金があるかないかなんて、どうして私に分かるのよ。あなたが小切手帳を管理しているのよ。」

妻はそう言い返します。

 

それに対して夫はこう言うかも知れません。

「正確にわかりはしないけれど、大体の金額は頭の中に入っているよ。でも、僕に確認もしないで、いろんなものを買ってくるのは君じゃないか。」

 

そして二人の間で緊張が高まっていくのです。

 

もう少しよい反応の仕方はこういうものです。

「ねぇ、一緒に予算を作ってみようよ。ある金額以上は使わないように二人で決めるのはどうかな。今月は少し厳しくなりそうだから。」

 

コロサイ人への手紙39-10節にはこうあります。

「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、

新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」

家庭内に正しくないと思われるようなことがあるのなら、その時は古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るべきなのです。それは、間違っていることに対する不平を言うのをやめて、その状況を改善するために行動するということです。励ましあうことを心がけ、批判ではなくて問題の解決法を考えるようにしてください。

 

如才なくふるまうこと

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」 (エペソ人への手紙4:29

 

ここで、「悪い」というのは、直訳すると 「腐った」 という意味の単語です。私たちは、口から腐った言葉を出すべきではありません。激しい議論をしている時に、思いつくこと全てを口にするのは非常によくないことです。そして、そんな時に自分の感情の赴くままに行動するのも賢いことではありません。自分の声の調子と舌とをよく見ておくようにして下さい。

 

専門家は、コミュニケーションには三つの要素があるといいます。言葉、声の調子、動作の三つがそれです。実はコミュニケーションの7%だけが、言葉によるものなのです。37%は声の調子によるもの、そして56%は動作によるものです。この三つ全てが一緒になることでメッセージが発せられます。きちんと意思疎通を行うためには、一つ一つが整合性のとれた状態になければいけないのです。

 

あなたの伴侶との間でコミュニケーションをとるときには、鋭敏で如才なくふるまってください。ボーイング747機をハイジャックしたテロリストと交渉をするとしたら、どういう態度をもって交渉の場に臨みますか?夫婦喧嘩のときと同じような話し方で、テロリストと話そうとするでしょうか?もしそうなら、そんな飛行機に乗っていたいと思いますか?飛行機は爆破されてしまわないでしょうか?

 

コミュニケーションの場において、あなたがもたらすものは平和でしょうか、それとも争いでしょうか?私がここで言いたいのはこういうことです。あなたの伴侶に対して、如才なく振舞ってください。言葉をえらび、声の調子と動作とに気を付けてください。そしてそれを守ってください。

 

 

公にしないこと

「無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」 (エペソ人への手紙4:31

 

不和を、公の場に持ち込まないようにしてください。伴侶を他の人の前でへこませるようなこともいけません。自分の妻の「分をわきまえさせる」ために、家族や友人たちの前で皮肉をいう男性を何人か過去に見てきました。ある人たちは、公の場は自分の伴侶に恥をかかせることによってその行動を改めさせる為の絶好のチャンスだと考えます。ですから、そういう人たちは意地の悪い批判を他人の前で繰り広げるのです。でも、真実はこうです。他の人の前で格好が悪くなるのは、あなたの伴侶ではなくてあなた自身なのです!。

 

聖書を教えるものとして、私もこの分野に関しては非常に敏感になる必要があります。メッセージを語る際にダニータと私の間の個人的な例を使うことがあるのですが、その前に、私は必ずその問題がすでに解決済みのものであること、そして悪者は彼女ではなく私であることをチェックするようにしています。

 

後に遺恨をのこさないこと

「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」 (エペソ人への手紙4:32

 

イエス様は、私たちが、心の優しく寛大なものとなることを願っておられます。キリストを通して私たちを赦してくださった神様のように、です。ですから、自分の伴侶が穴に落ち込んだような時には、手を差し伸べて引き上げるようにしてください。土をかぶせて埋めてしまってはいけないのです! 伴侶が失敗したら、それを放ったらかしにしておくのではなく、助けてあげてください。また、自分に対して何か過ちを犯したとしても、それを記録に留めておいて、将来別の時に武器として使うような事はしないでください。

 

私たち夫婦は、何年かをかけて家のリフォームをやったことがあります。ある日の夕方、ダニータと私は、新しくできたばかりの排水溝を見上げながら、ジャグジーに入っていました。それを取り付けるために、私が一日中頑張って働いたあとでした。

「水はどこに流れ落ちるの?」

二階の屋根沿いの排水溝を指差しながらダニータが聞きました。

「家のあの端の部分と、この端だよ。」

家の端のほうを指差しながら、私は答えました。そのあとで、私のやったことは必要なことだった、ということも付け加えました。

「排水溝ばっかりになっちゃうじゃない。」 と彼女は言いました。

「でも説明書にはそう書いてあったんだ。そうしなきゃいけなかったんだよ。」

私はそう返事しました。

 

そこで殺し文句が来ました。

「ティンカートイ[40]みたいな家は嫌だわ。」

 

「僕のやった仕事をティンカートイって呼んだな?」 そう私は大声で抗議しました。

「こつこつ作業をやって、早く終わらせようとしているのに。排水溝はそこじゃなきゃ駄目なんだ。他に場所はないよ!」

 

「あそこの岩の周りにやってみたら?」 彼女はそう言いました。

 

その後でいくつかアイデアを出し合いましたが、もはや手遅れでした。ティンカートイと言われたのが癪にさわったので、何を言われても聞く気にはなれませんでした。彼女は、私のやった作業が不器用だとか、不適当だとか言おうとしたのではありません。彼女はただ、美しいとはいえない排水溝のパイプがあちこちから突き出ているのが嫌だっただけなのです。私たちの視点は全く異なったものでした。だんだんとジャグジーの中にいるのが居心地悪くなってきたので、私はそこから出ました。

 

「どういうこと?」 彼女が聞いてきました。

「ジャグジーが熱すぎて我慢できないんだ。」 私はそう答えました。

彼女はしつこくこう言いました。

「どう考えても、あれが正しい状態だとは思えないわ。」

議論が続きましたが、何一つ解決されはしませんでした。

 

私は家の中に入って、聖書のメッセージを書く作業に取り掛かりましたが、全くはかどりませんでした。未解決の問題が家の中に置き去りになっている間は、真の平安はそこにはありません。ですから、私は外に戻り彼女にキスして、私と一緒に散歩に出かけて他の家がどうなっているか見てみないか、と彼女に尋ねました。そして一緒に外に出て、他のティンカートイのような家の排水溝がどうなっているのか見に行ったのです。

 

一緒に歩いて話しているときに、彼女はこう言いました。

「あなたの作業をティンカートイと呼ぶつもりはなかったのよ。プラスチックのパイプがあちこちでぶらさがっているのが気に入らなかっただけ。」

私はこう約束しました。

「そういう風にはならないよ。全部終わったらきっと見事になるから。」

 

私たちは解決法を見出しました。問題に直面した時はいつもそうしなければならないように、ただ一緒になって最善と思われる方法を決めたのです。

 

争いをどうすればやめることができるでしょうか?簡単です。自分が間違った時には、その誤りを認めてください。それをやるのに大きな困難を覚える人もいますが、ここに一度切断されてしまったコミュニケーションを再接続し、破れ目を修復するためのよい言葉があります。

「ごめんなさい。赦してください。愛してるよ。」

もし、語彙力がなくて、こういう言葉は自分の辞書にはないという人がいたら、他の言葉を減らしてでも、上の三つの言葉を辞書に載せておくことをお勧めします。健全で、幸せな関係がそれにかかっているのです。

 

争いがあるときには、自分にもいくらかの非を見出すことができると思います。その非を小さくしてしまうのは賢いことではありません。聖書には、律法の一つの点でつまづくなら全てを犯すのと同じことだと書いてあることを(ヤコブ2:10)覚えておいてください。自分の過ちは過ちとして認めてください。そして、自分の伴侶の非を指摘することは避けてください。相手に自分のやり方を見習ってもらうためにも、まず自分で良いお手本になって、その後で主がどうされるのか見てください。

頭の中で、こう考えることがあるかもしれません。

「自分はごめんなさい、と謝ったけれど、相手はいつになったら謝ってくれるのだろう?」

それはあなたの問題ではありません。聖霊様がなさることだからです。自分の分については責任をとり、相手については神様にお任せしてください。

 

結婚における争いが、あなたとあなたの伴侶だけのものだったら、結果はあまり芳しくないかもしれません。けれども、聖霊様が二人の間におられるのです。結婚した相手よりももっと高いところにおられる方の前に責任があるのだということを知っておいてください。結婚において、聖霊様が働けるようにしてください。

 

 

第五章

傷つけられてしまった親密さ

 

「私たちのために、ぶどう畑を荒らす狐や子狐を捕らえておくれ。」 雅歌215

 

 

テーブルの下でのロマンス

(このお話しは、カルバリーチャペルの牧師会議で語られたことのあるものですから、ここでくり返しても大丈夫だと思います。)

 

あるところに、お互いの求めに応じることに困難を覚えている夫婦がいました。そこで彼らは結婚カウンセラーの所に行きました。ソファーの片端に夫が座り、もう片端に妻が座りました。お互いを見るときの彼らは、にらみ合うかのようでした。カウンセラーは所見をこう述べました。

「かなり深刻な問題を抱えておられるようですね。」

その夫婦はぎこちない様子ながらも、互いの関係についてどうにか話す事が出来ました。

 

すべての後でカウンセラーはこう言いました。

「お互いの間の恋愛感情[41]を取り戻すべきですね。お二人とも堅苦しすぎるので、もっとのびのびやった方がいいと思います。今週の宿題は、もっとロマンチックであることと、もっと自然に振舞うこと、そしてもっと互いに自由[42]でいることです。」

 

翌週になって、その夫婦は戻ってきたのですが、今度は互いを熱いまなざしで見つめあいながら手を取り合って座ったのです。前回とは全く正反対でした。にっこり笑ってカウンセラーはこう聞きました。

「わぁ、何をやったんですか?何か素晴らしいことが二人の間に起きたみたいですね!」

 

彼らは互いを見合ってからこう言いました。

「ええ、二人の関係がもっとロマンチックで伸びやかなものになるようにしたんです。ムードのある場所で、ロウソクを灯して食事をしました。彼女が僕の隣に移ってきて、お互いに瞳を見つめあいながら手をつなぎました。とても美しかったです。ロウソクの火が彼女の顔を照らす様はとてもロマンチックで、我々がまだ若かった日のことを思い出しました。そのうちだんだんと情熱的になってしまって、テーブルの下に二人とも滑り込んでしまったんです。」

 

「ということは・・・テーブルの真下で?」

カウンセラーはこう聞きました。

 

「ええ!」

 

「それは本当にのびのびした行動でしたね。それで何が起こったんです?」

 

「すべてが最高でした。」

こう言って夫婦はため息をつきました。

「でも、あのレストランは二度と私たちを入れてくれくれないでしょうね。」

 

 

教会史に見られる姿勢[43]

 

セックスについて語るのは時には難しいことです。けれども、互いの伴侶との関係、そして主との関係とを深めていく中で、セックスについて話すことも徐々に難しくなくなっていきます。

 

昔の教会において、セックスは禁じられたトピックでした。教会史におけるある有名な人たち-チャールズ・ロンバーディン、グレッチェンなど-は、夫婦が性交渉をもつときに(例えそれが生殖のためであったとしても)、聖霊様はその部屋から出て行かれると信者たちに警告しました。別の教会における指導者たちは、聖なる日や時期には神様は性的禁欲を要求される、と強調しました。さらには、木曜はイエス様が連行された日だから、金曜はイエス様が十字架につけられた日だから、土曜は処女マリアの故に、日曜はイエス様の復活を覚える為に、そして月曜は死者の魂の為に、という理由で夫婦が性交渉を持たないように教えたのです(火曜と水曜だけが残ります)。

 

こういう教えに従って生きなければならないのなら、火曜日と水曜日は良い日でなければ困ります。さもないと我々は欲求不満の溜まった夫婦となってしまうでしょう。

 

 

妻の役割

 

夫や妻の役割において秀でることを主は私たちに命じておられます。夫との関係における妻の役割についてまず見てみましょう。ペテロは第1ペテロ3章の14節ではっきりと、このように書いています。

 

「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」

 

妻の注意力は主を中心とした方向に向けられているべきです。神様が内なる美しさを通して働かれることを可能にするからです。夫の霊的状態に関して心配しすぎるべきではありません。むしろ自分の主との関係に集中するべきです。神様が内面を強調されるのは、外面はむちゃくちゃでも構わないということでもありません。

 

主は妻たちに、柔和で穏やかな霊を持つように呼びかけておられます。これは上品[44]で尊敬に値する振る舞いのことです。けれども、この命令に留意するかわりに、自分のやり方を通そうとする女性たちもいます。こういった女性は陰険でしつこく、欺瞞に富んだ[45]存在になりがちです。これは主が女性にそうあってほしいと望んでおられるのとは、全く正反対の性質です。

 

ウェブスター辞書は、欺瞞[46]をこう定義しています。

「自分の望むものを手に入れる為の、不正で陰険な技術」

 

ごまかしを行う傾向のある女性は、こう考えます。

「自分の夫に関しては、神様を信頼することが出来ない。自分自身の手で彼をまともにしなければ。」

 

そういう女性は、不機嫌さや、口を尖らせてすねること、悪だくらみ、そしてセックスを用いて夫をコントロールしようとします。時には嘘をつくことさえあるかも知れません。そういった方法が上手くいくこともあるかも知れません。けれどもすぐに、そこには何ら永続的な変化がないことを彼女は見出します。それは、夫を変えたりコントロールする自分の能力を、彼女が信頼してしまっているからです。彼女はさらに、自分の伴侶の変化が永続的なものでないことを発見するだけではなく、自分の欺瞞が、二人の関係を破滅に追いやりかねないということを知るのです。それが神様に栄光を帰すようなことも、当然ありえません。あなたの言葉ではなく、柔和で穏やか(平和)な行いによって、あなたの夫は勝ち取られることが出来るのだということを覚えておいてください。神様の手によって彼が変えられるようにしてください。自分の手で彼を-特にあなたとの性的な関係において-変えようとするのは、不可能(ミッション・インポシブル)なことなのです。

 

何年間も親密な状態を経験していない夫婦たちに対して、私はカウンセリングを行ってきました。彼らがこういう風に言うのも耳にしてきました。

「私たちが過去一年間一緒になったのを数えるのには、片手で十分です。」

セックスが、結婚における問題の解決になるようなことはまずありませんが、それでも夫婦関係の健全さを図る良い物差しにはなりえます。上に述べたような場合は、何かが上手くいっていないことのシグナルです。解決されていない争いがあるのかも知れませんし、片方がセックスを何か別のものを手に入れる為の手段としているのかも知れません。こういった状態が良い実を結ぶことはありません。

 

 

夫の役割

 

過去に内面を美しく飾った女性の例として、ペテロはサラを挙げていますが、男性に対してはこう書いています。

「妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。

最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。」 (第一ペテロ378節)

 

夫のアプローチは、妻のそれとはかなり異なったものです。男性が自分のやり方を通すために用いるのは、権威や威嚇といったものです。彼は物事を強制する存在としての役割を担い、過程で自分の意思を押し通そうとします。第一ペテロの37節になんと書いてあるか、もう一度注目してください。

「妻が・・・自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活しなさい」

立場が弱くなると、男性は威嚇に訴えることで自分の意思を通そうとします。主の方法は-男性が自分自身についてどのように感じていたとしても-常に同じです。夫はしもべであるべきであり、言い訳をしない存在でなければいけないのです。夫は理解するべきなのであって、妻に要求するべきではありません。男性がその妻に対して居丈高に振舞う時[47]、彼は主にあって妻を導いてはいません。こういう種のリーダーシップのもとでは、妻である女性は怯えてしまうか、反抗的になってしまうかのどちらかです。権威による強制は、悪い実を結んでしまいます。結婚生活のセックスという部分で神様がご計画されていることは、夫が優しさではなく暴虐によって家庭を治めようとしている間は決して実現することがないでしょう。

 

 

弱い器を愛しむこと

 

ペテロは、女性が弱い器であると述べました。弱いということを、価値の劣るということと混同しないようにしてください。ペテロは女性は価値の劣るものだとは言っていないのです。次のような例を用いて説明してみましょう。コーヒーのカップにはいろいろな大きさや形があります。皆さんにも自分の好むスタイルがあると思います。ある種のカップは分厚くてごつごつしています。とても重たいので、両手で持たなければいけないこともあるかも知れません。別の種の陶器は、薄くて繊細な、青磁でできたカップです。上品でスタイルの良いものです。どちらのカップも、コーヒーを飲むという目的を果たすという点では同じです。けれども、分厚くてごつごつしたカップと、薄くて繊細なカップとを互いにぶつけ合ったら、どちらが壊れると思いますか?もちろん、弱くてデリケートな方のカップです。同様に、男性がその妻である女性と衝突する時、感情的に傷つきやすく、たましいが砕かれやすいのは女性の方なのです。

 

神様が、女性は弱い器であるということを宣言されたとき、それは単純に二つの性が互いに異なるものだということを意味していたのです。政治的に正しい社会はそれを否定しようとしますが、とても危険なことです。

 

女性は、男性とは異なる創られかたをしています。女性は自分の周囲に対する洗練された感覚をもっています。自分の周りで起こっていることに対して敏感なのです。女性の感情はとても鋭敏ですが、男性はそうではありません。どちらかというと男性はごつごつしたコーヒーカップなのです。女性の心の琴線に触れるようなことも、男性の感覚には容易には届きません。女性を傷つけるようなことが、男性の感情を傷つけるとも限らないのです。ですから、家庭の中で衝突が起きる時に、男性は注意を払わなければなりません。女性を打ち砕く力と、相手を守る力の両方とを男性は持っているからです。自らの感情や必要がやさしく丁寧に、そして大切に扱われた時に、はじめて女性はそれに反応していくことができるようにつくられている、ということを私たち男性は理解する必要があります。女性は命令や要求には上手く反応できませんが、男性が理解をもって接すれば積極的に反応することができるのです。妻にはやさしく接するようペテロが教えているのも、こういった理由によるのです。

 

 

ポルノグラフィーが寝室にもたらす悪影響

 

威圧することを通して、寝室における自分の望みを満たそうとする男性は、まずい状態にあります。[48]

ある男性たちは、セックスの際に不合理で愚かな要求を妻に対して発します。カウンセリングの場で男性たちが、若い頃に覚えた性的なファンタジーを満たす(時にはポルノグラフィーを伴う)ために妻を使おうとした、と告白するのを目にしてきました。

 

「セックスの時に、アダルトビデオを見てもいいですか?」

と私に聞いた男性と、そのガールフレンドの結婚式を、私は最近執り行いました。その質問に対する私の答えは、

「君の奥さんを駄目にしてしまいたいなら、やってみれば。君は刺激を受けるかもしれないけど、彼女のことを滅ぼしてしまうよ。そんなことをしたら、信頼も親密さも二人の間には生まれないよ。」

というものでした。彼らに対して私が行った結婚前カウンセリングでは、ポルノグラフィーを取り扱っていなかったので、この時の質問は私を大変驚かせました。この男性の性癖を前もって知っていたなら、二人を結婚させ、女性を危機に陥れるようなことはしなかっただろう、と思います。

 

男性が、自分の作り出した性的幻想の中に妻を巻き込もうとするとき、女性は自分が安っぽく見られ、利用されていると感じます。夫が自分の好色な欲望を満たすための道具として妻を利用する時、彼女の女性として、そして妻としての自己価値は傷つけられてしまいます。一度始まってしまうと、これを止めるのは容易ではありません。時速160キロで走行中の電車のように、スピードを落とすのに時間がかかり、すぐには停止できないのです。ポルノグラフィーに関わっている男性には、価値のある深い関係を妻と育むことはとても困難なことです。恋愛は、幻想と生々しい肉欲に取って代わられてしまいます。女性に対して感受性と優しさを示すのは、こういう男性にはとても困難なことです。二人の関係から生まれる深い満足感と本当の親密さは、捉えどころのないものになってしまいます。

 

神様は私たちを体、精神、たましいの三つでつくられました。神様の御霊によって新生する前、私たちは体の欲求に支配されていました。新生によってそれが逆転したのです。たましいが最上位にあり、神様はたましいを用いて私たちを導き、私たちの主となることを望んでおられます。[49]

クリスチャンである私たちは、キリストにあって完全なものです。たましい、精神、体が一つとなって新しきものとなったのです。聖書には

「古いものは過ぎ去って」 (第2コリント5:17

とあります。本当の満足は、古くて人工的なものからは得ることができません。私たちの性的な部分も、この古くて人工的なものの一部なのです。結婚に神様が介在される時、そこにはキリストを受け入れる前に受けたどのようなダメージも凌ぐような深い親密感があります。神様がセックスをおつくりになったのだということを覚えておいてください。私たちがキリストにあって生きるなら、この世のどのようなものも、空想のイメージも、神様からのお約束に適うようなものではないのです。

 

 

結婚における親密さを実現するための原則

 

聖書の原則を堅く守ることは、結婚における親密さをはぐくむのに有益です。ここでいう原則とは、親密さを与える代わりに取り去ってしまうようなこの世の習慣や、誤解を正すためのものです。以下に述べる指針は、御霊にあって夫婦関係を歩み始めたカップルや、最初のころはキリストを受け入れていなかったようなカップルに応用できると思います。

 

ダニータと私は、結婚前に3年間ほど付き合っていました。二人とも神様を喜ばせるような生き方はしていませんでした。ようやく結婚した時、二人の関係における道徳的基盤はぼろぼろになっていました。救われた後になって、神様の望まれている親密さというものがあることに気づき、それに関する主の導きを求めるようになりました。下に述べるのは、親密さの青写真のようなものです。

 

 

神様を敬うような視点で、セックスを取り扱うこと[50]

 

私たちは、セックスに対して正しい姿勢を持つ必要があります。アダルトビデオに影響されたようなセックス観があるならばそれをリセットし、信仰を伴ったものへと変えていく必要があります。実際のところ、神様以上にセックスについて知っているという人は存在するでしょうか?神様がそれをつくられたのです。あなたがもし車を買って、6ヵ月後にそれが故障をおこしたらどうするでしょうか?ジャンク・パーツ屋にではなく、ディーラーのところにいくでしょう。同じことが、ポルノグラフィーに関わっている人にも言えるのです。彼らは、セックスのジャンク・パーツ屋で買い物をしています。ディーラーである神様のもとに戻る必要があるのです。

 

セックスと神様という単語が同じ文章の中に出てくるのを嫌う人たちがいます。悪魔はそういった状態を好むようです。というのも私たちが日常で耳にするセックスという言葉は、メディアやその他神様を知らない人たちから出ているからです。彼らは、セックスという言葉を、性の解放の名の下で乱交やポルノグラフィーを奨励するために用います。この結果、クリスチャンでさえもが、セックスや結婚について常に健全な意見をもてないような状態が起きてしまいます。そこにあるのは、この世的なセックス観か、セックスを忌み嫌うような観点かのどちらかで、不幸なことに両者の間には何も存在しないのです。神様は、結婚している夫婦がセックスを通して楽しみ、喜ぶことを望んでおられます。夫婦が肉体的な関係について健全な視点を持つことは、神様が用意されておられる物事を達成していく上で非常に重要なことなのです。

 

家を建てるときには、まず最初にしっかりとした設計図が必要です。そして、土台をすえる前に内装に手をつけるようなことも我々はしません。結婚においても同じことが言えます。セックスに関する部分は、内装のようなものなのです。土台がすえられてから行われなければなりません。神様の計画、あなたの頭のうちにあるもの、それらがしっかりして始めてベッドの上での喜びが得られるのです。

 

聖書には、私たちが神様に似せられてつくられた、とあります。これは、神様が私たちを品位と価値のあるものとしてつくられたということです。また、神様は人が性欲と深い親密さを作り上げる能力をもつようにつくられました。けれども、同時に我々の性欲が満たされるための条件もおつくりになられたのです。神様が計画されたのとは違うやりかたで性的な満足を得ようとすると、満たされることがなく、欲求不満がたまって、ソロモンのような状態になってしまいます。ソロモン王には700人の妻と300人の妾がいましたが(つまり、1000親密な関係です)、彼はそれでも満たされていなかったのです!なぜでしょうか?それは、彼が誤った文脈の中でセックスを用いようとしていたからです。

 

使途の働きの10章で、使徒ペテロは、天から大きな敷布が四隅をつるされて地上に降りてくるという幻を与えられました。その中にはあらゆる種類の四足の動物や、這うもの、空の鳥などがいました。主はこう呼びかけられました。

「ほふって、食べなさい!」

けれども、ペテロは

「主よそれはできません。私はまだ一度も、清くない物や汚れた物を食べたことがありません。」

と言いました。

主はこう告げられました。

「私がきよめた物を、きよくないと言ってはならない。」

 

神様は、すべての食べ物はきよいということ、そしてもっと広い意味では、ユダヤ人と異邦人との仕切りがなくなったことについて語られたのです。この意味を、もう少し広げてみましょう。もしかしたら皆さんは、セックスが人生の大きな問題点になっていたような経験の持ち主かもしれません。セックスを連想させるようなものはすべて、罪深い生活や、不品行で汚れた思いにつながるかもしれません。こういったことを考え始めると、それをやめるのは容易ではないかもしれません。けれども一つ知っておいていただきたいのは、皆さんがキリストにあって新しくされた者であるのと同じように、皆さんのなかの性的な部分も、神様があたらしくされたのです。「主がきよめたものを、きよくないと言ってはならない」のです。

 

私は救われる前に非常に淫らな生活を送っていた夫婦を知っています。彼らは救われ、互いに出会い、そしてクリスチャンとして結婚しました。後になってカウンセリングの中で、彼らはこう告白しました。

「性的な関係を私たちは楽しむことができません。というのも、過去に付き合ってきた人たちとのいろいろな思い出や考えが頭の中から消えないからです。」

過去の人間関係からくる汚れた思いは、クリスチャンの夫と妻という関係に対して神様が用意してくださっている物事を破壊してしまいます。頭の中に入ってしまったものをきれいにするのには時間がかかります。けれども、神様には

「聖霊による、新生と更新との洗いをもって」(テトス3:5

私たちの思いを新しくしてくださることが可能なのです。20年が過ぎましたが、この夫婦は今では子供にも恵まれ、とても幸せな結婚生活を送っています。

 

 

セックスが喜ばしいものとなるようにすること

 

聖書には結婚におけるセックスの喜びについて率直に述べられています。実際、私はよくジョセフ・ディローによる「ソロモンとセックス」という本を夫婦が読むように薦めます。この本は雅歌について書かれたものですが、ソロモンと、ソロモンが愛したシュラミテ人の女性との愛の生活を、多角的に取り扱ったものです。

 

箴言の515節にはこうあります。

「あなたの水ためから、水を飲め。

豊かな水をあなたの井戸から。」

作者は、性的な経験について語っているのです。自分の水ため(自分の妻や夫のことです)に行き、水を飲んでください。箴言の519節にはこう書いてあります。

「その乳房がいつもあなたを酔わせ」

これは文字通り、性的に満足することを、自分に許すということなのです。自分が性的満足を得るように許すのは、自分の伴侶との関係においてだけなのだ、ということを心に留めておいてください。

 

雅歌の第5章で作者は、妻の夫に対する愛と、夫とともに妻が味わう喜びとを描写しています。彼女は自分の感情を言葉で表しています。結婚生活で、自分たちの感情を言い表すことはとても重要だということを、覚えておいてください。

 

女性はこう言います。

「私の愛する方は、輝いて、赤く、

万人よりすぐれ、

その頭は純金です。

髪の毛はなつめやしの枝で、烏のように黒く、

その目は、乳で洗われ、池のほとりで休み、

水の流れのほとりにいる鳩のようです。

その頬は、良いかおりを放つ香料の花壇のよう。

くちびるは没薬の液をしたたらせるゆりの花。

その腕は、タルシシュの宝石をはめこんだ

金の棒。

からだは、サファイヤでおおった象牙の細工。

その足は、純金の台座に据えられた大理石の柱。

その姿はレバノンのよう。杉のようにすばらしい。」(雅歌5:10-15

 

同様に、ソロモンはその美しい花嫁を7章で描写しています。

「高貴な人の娘よ。

サンダルの中のあなたの足はなんと美しいことよ。

あなたの丸みを帯びたももは、

名人の手で作られた飾りのようだ。

あなたのほぞは、混ぜ合わせたぶどう酒の

尽きることのない丸い杯。

あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた小麦の山。

あなたの二つの乳房は、ふたごのかもしか、

二頭の小鹿。

あなたの首は、象牙のやぐらのようだ。

あなたの目は、バテ・ラビムの門のほとり、

ヘシュボンの池。

あなたの鼻は、ダマスコのほうを見張っている

レバノンのやぐらのようだ。

あなたの頭はカルメル山のようにそびえ、

あなたの乱れた髪は紫色。

王はそのふさふさした髪のとりこになった。

 

ああ、慰めに満ちた愛よ。

あなたはなんと美しく、快いことよ。

あなたの背たけはなつめやしの木のよう、

あなたの乳房はぶどうのふさのようだ。」(雅歌7:1-9

今日私たちが、私たちそれぞれの伴侶を表現するのとは少し異なった言葉かもしれません。ソロモンとこのシュラミテの女性は、当時は日常的だった詩的な言語や表現を、互いについて表現する為に用いました。聖書の中ではよくあることです。使徒パウロは、ピリピの牢獄の中でローマ人の守衛に鎖につながれて過ごしたことがありましたが、それを通してエペソ人への手紙の6章にある神の防具についての描写を得ました。パウロは、ローマの兵士が日常的に身につけている防具を例にして、我々の霊的な防具を描写したのです。例えば救いのかぶと、正義の胸当て、などです。同様にして、雅歌の詩は、日常的な題材を用いて、男性とその妻との間の恋愛を描写したのです。日常ありふれたものを、美しいものへと昇華させながら。

 

箴言の518節から20節にはこうあります。

「あなたの泉を祝福されたものとし、

あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。

愛らしい雌鹿、いとしいかもしかよ。

その乳房がいつもあなたを酔わせ、

いつも彼女の愛に夢中になれ。

わが子よ。あなたはどうして他国の女に夢中になり、

見知らぬ女の胸を抱くのか。」

不品行を通して満たされることはできません。一つの関係から、また別の関係へと移っていくだけなのです。

 

自分の伴侶が、自分を満たすことができるように、意識的に選択していく必要があります。夫と妻は、錠前と鍵のようなものです。片方だけでは何の役にもたちません。結婚における霊的な戦いについて考える時、私たちは、足場をまず壊そうとするサタンの策略を理解する必要があります。こういった策略のひとつは、自分の結婚は退屈かつ陳腐で、自分の伴侶は昔そう思っていたほど特別な人ではない、とあなたに思い込ませることなのです。

 

こういった傾向に身をゆだねてしまことは、神様がユニークで唯一のものとしてつくられたことを、ありふれたものに変えてしまうことです。その後に不満と満たされない気持ちとが続きます。人が、その伴侶に対して不満をつのらせるとき、その根源には神様への不満が存在します。それは神様のご計画と、神様が結婚生活において働かれるということへを否定するような思いです。そして、やがては神様が結婚を完成したものとしてくださること、そして夫と妻というそれぞれの役割において二人を成熟へと導いてくださるということから目を離してしまいます。ですから、敵のこういった巧妙なやり方を警戒してください。

「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたから逃げ去ります。」 (ヤコブ4:7)

 

 

セックスを、結婚の内側にとどめておくこと

 

セックスは結婚のうえに行われるものであり、結婚外や結婚式の前に行われるべきものではありません。婚外や婚前にセックスを行うことは、罪悪感と恥の意識をもたらし、自分の伴侶に対する敏感さを鈍くしてしまいます。今日のリベラルな社会がなんと言ったとしてもです。もしカップルが、婚前にセックスをしてしまったなら、妻のほうは自分が待つに値しない存在であるかのように感じるでしょう。家庭のかしらであるべき存在が自分のことを裏切ったかのように感じるのです。こういったケースではしばしば、結婚後の家庭を女性が支配する傾向が見られます。なぜならば、信頼が損なわれてしまったからなのです。神様は、妻が夫に反応するようにつくられました。結婚前の期間にセックスを行うことで、男性が自身を信頼に値しないものとしてしまうなら、結婚後の家庭や彼女の安全について、妻が夫を信頼していくのはとても難しくなってしまいます。自然に、妻は自分自身を守ろうとして、家庭においても主導的な役割を果たそうとするようになります。このパターンは、夫が長い時間をかけて、主にあって家庭を導いていこと示すことで、ようやく解消できるものです。一般的には、支配的な妻に対して夫の方がとても受動的になってしまう、というケースが多いようです。男性側は、貧弱な霊的かしらとしてこの種の問題を作り出してしまい、それを継続するとすれば、それは破滅的な行為なのです。

 

妻は、必要であれば主導権を握ります。夫モーセに欠けている部分を補う存在であったチッポラ(出エジプト記4:24-26)のように、それを心地よいものとは思わないかもしれませんが、家庭を守る為にそうするのです。妻が攻撃的になるにつれて、夫のほうは自己主張ができなくなっていきます。そして、それが危険なサイクルを生み出します。こういった不安定さはしばしば、結婚前のセックスにその原因を見出すことができるのです。

 

雨と太陽の光とは、木がすくすく育つのを助ける役割を果たします。けれども同じものによって、物が腐ってしまう場合もあります。同じように、セックスが神様の結婚に対する計画から外れた用いられ方をするとき、それは二人の関係を腐らせ、苦々しさをもたらすことがあるのです。新婚期間がずっと続いて欲しいと願うなら、聖書的なセックスを行ってください。

 

 

正しく行う

 

婚前交渉をすでに行っている人はどうすればいいでしょうか?神様はあがなわれる方だということを思い出してください。神様は最悪の状況をも打開することのできるお方です。それはこの場合も同じです。

 

最初に、神様に対して罪を犯したのだということを認めてください。神様はあなたをつくられ、あなたに一定の能力をお与えになった方です。性欲はその能力の一つです。それがあなたの人生において使われるための規定も、神様がお定めになりました。それは結婚の後にのみ使われるべきものなのです。この神様の規定の外へ踏み出してしまったのなら、それは罪なのです。神様に自分のしたことを告白してください。神様は赦して下さいます。第一ヨハネの19節にはこうあります。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」

 

第二に、自分の相手に対しても罪を犯したのだということを認識してください。

「同意の上でやったんですよ。僕と同じぐらい彼女もやる気だったんだ!」

と思うかもしれませんし、それが真実かもしれません。けれどもそれは、あなたが相手のもとに行って結婚における根本的な規範を破ってしまったことについて赦しをこうことの責任を、少しも軽くするものではありません。次のような祈りが、神様の御前と相手の前に進み出る時に助けになるかもしれません。

「天のお父様、結婚におけるあなたの完全な計画にそわないことをしてしまいました。ごめんなさい。私は罪を犯しました。全責任を私が負います。」

 

そして、次の祈りを声に出して互いに祈ってください。

「愛する人よ、私たちの関係において、私が神様を第一としなかったことを謝ります。自分の情欲をコントロールせず、むしろ状況を利用したことを赦してください。神様に対して、そしてあなたに対して罪を犯しました。ごめんなさい。愛してるよ。どうか赦してください。」

 

一度これを行えば、次にあるのは全く新しいスタートです。前を向いて、神様がなさろうとしておられる素晴らしいものごとに目を向けてください。罪を隠すなら、それは膿んだ傷となって、あなたの関係を滅ぼすことになります。箴言の2813節にはこうあります。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。

それを告白して、それを捨てる者は、

あわれみを受ける。」

神様は素晴らしいことをあなたの結婚において計画してくださっています。単純に神様の方法に従ってください。

 

 

自分の感情の中で利己的にならない

 

私たちの愛情は、自分を喜ばせることを主な目的としてはいません。私たちは、相手の満足に専心するべきです。自分が満たされることを追求するのは自然なことですが、そこで終わってしまうのは聖書的ではありません。神様は、完全な性的満足感を、双方が満たされることで始めて味わえるように私たちをつくられました。第一コリント73節にはこうあります。

「夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。」

この箇所は、私たちが自分を喜ばせることだけでなく、自分の伴侶をもセックスにおいて喜ばせるように示しているのです。

 

 

相手からそれを奪ってしまわない

 

性欲についてそうであるように、自分の相手を拒絶しない、ということについても神様の定めがあります。

「互いの権利を奪い取ってはいけません。ただし、祈りに専心するために、合意の上でしばらく離れていて、また再びいっしょになるというのなら構いません。」(第一コリント75)

自分の伴侶への仕返しや、自分の望むものを手に入れるためにセックスが用いられるようなことは、決してあってはなりません。セックスという、神様が結婚に伴う自然なこととしてつくられたものに対する興味がなくなってしまうとすれば、それはもっと深い問題の兆候です。もし二人が、霊的もしくは肉体的な理由から性的な関係をもつことを絶つのならば、この聖書箇所が示すようにそれは短い期間でなければいけません。例えば、共に祈り断食する為に、禁欲することに二人で決めるようなことがあるかもしれません。そういった場合のことを、パウロはここで述べているように考えられます。それよりももっと長い間性的関係がもたれていないのならば、そこには問題があります。それは夫婦にとっては不自然なことで、敵はそれを用いて二人を誘惑しようとするでしょう。

 

 

性別とセックス

 

女性にとって性とは何を意味するのでしょうか?女性にとっては、自分の夫が自分とのセックスを通して満足することからくる、自己受容がとても重要なことになります。彼女はこう考えます。

「私は彼のことを満足させているだろうか?私と、私の体を通して彼はセックスに喜びを得ているだろうか?」

彼女がそう感じられないとすれば、二人の関係には問題が生じてきます。

 

脳が、女性のセックスにおける司令塔です。そして次に挙げるのが、女性に影響を与える三つの分野です。

 

1.セックスについてどう考えているか

セックスについて健全な姿勢を持っているでしょうか?私は「セックスに対してノーと言いなさい」と頭に刷り込まれて生きてきた女性を知っています。彼女は新婚旅行に行く準備ができていませんでした。花嫁としてそれが当然のことになっても、それでもまだセックスをOKすることができなかったのです。

 

2.自分自身についてどう考えているか

自分のことを低く見ているでしょうか。それとも、彼女は自分自身が

「奇しく、恐ろしいほど」(詩篇13914)

に神様がおつくりくださっている、ということを適切に理解しているでしょうか?

 

3.自分の夫についてどう考えているか

これは、女性にとっては非常に重要な問題です。自分の夫は無能な人間であると妻が考えているとしたら、寝室での時間はうまく運びません。自分の夫に対して批判的な態度を抱いているとしたら、それが二人の性的関係にも顕れてくるのです。神様が用意されたような満足感は幻想に終わってしまいます。ピリピ人への手紙48節ではこう教えられています。

「すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳といわれること、、賞賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」

私たちの考え方のパターンが変化していけば、愛もそこから育つのです。

 

自分の夫のことをどのようにお考えですか?彼が上手にできることに思いを集中させ、自分をいらいらさせるようなことについては祈ってください。二人の愛の関係が停滞状態に陥ってしまう時には、自分の夫について自分がどのような考えを抱いているか吟味して、必要であればそれを変えるようにしてください。批判を言うのではなく、褒めるようにしてください。人が自分の思いを変え、行動をも変えるとき、それはその人の性的関係に大きな影響をもたらすのです。

 

男性にとっては、性は視覚を通して刺激されるものです。男性は相手が何を考え、感じているのかということにはあまりとらわれません。彼の"エンジン"は、見ることによってスタートするのです。妻のほうは、性的関係を感情が経験するものと考えますが、男性はそれとは全く異なっています。女性がベッドに入るだけのために服を脱ぐという行為が、それを見ている男性には“彼女は僕を欲しがってるんだな”と昂ぶらせることになるのです。これは相互の間の完全な誤解です。

 

男性は視覚を通して刺激をうけますが、ポルノグラフィーはそういう男性の妻への欲望を殺してしまいます。なぜならば、神様は人を関係を築くようにつくられたからです。ポルノグラフィーには何の人間関係も存在しません。画像を構成するフィルムや、紙の上のインクと親族関係を結ぶことなどできないのです。こういう行為は完全に非現実的で、自己満足的[51]なものです。現実に幻想が取って代わってしまいます。結婚している男性には、性的関係を持つことのできる女性を妻として神様が与えてくださっているのです。ポルノグラフィーが崇拝の対象になっているのなら、今すぐそれを捨てて、神様の御言葉と妻への愛情によって、自分の頭の中に蓄積されたイメージを洗い流す作業を始めてください。

 

ディズニーランドは、おとぎの世界として知られています。一日をそこで過ごしたなら、

「ほんと、ここに住めたらいいのに。とても楽しいし、魔法や不思議なことが一杯だよ。」

と言う人もいるかも知れません。

「アニメのキャラクター達が周りを歩いていたり、夜にはライト・ショーがあったり、音楽がいつも流れているんだ。テントを買って、この魅惑的な場所に住もう。現実の世界はもういいや。ディズニーランドにこれから住むんだ。」

けれども、それらはすべて、おとぎ話[52]で、非現実的な想像の産物なのです。それに、すぐに帰るように言われてしまうでしょう。そこに住むことはできませんし、現実の世界に戻らなければならなくなるのです。ポルノグラフィーによる性的な幻想もこれと同じです。そこに住もうとする行為は、あなた自身と、あなたの伴侶との関係とを滅ぼしてしまいます。これこそが、聖書に

「あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。・・・いつも彼女の愛に夢中になれ。」(箴言518-19)

と書かれてある理由なのです。ポルノグラフィーは、結婚に過酷な重荷を強いる、倒錯の底なし沼のようなものなのです。

 

ポルノグラフィーへの性的依存は、ヘロインなみに強力なものになることもあります。それを用い続ける時間が長ければ長いほど、そこから抜け出すための労力も多大なものになります。私の教会である男性が “神様への依存”というクラスを始めましたが、ここでの内容は薬物依存やアルコール中毒を取り扱うものです。けれどもそれを性的な中毒にも応用することができると思います。その習慣から抜け出すためには、たっぷりと時間をかける必要があります。しばしば、男性間の集まりで定期的に状況を説明することや、牧師のカウンセリングが必要となります。

 

最後に、我々と主イエス・キリストとの関係が、幸せな結婚生活の核となる部分です。キリストを救い主として受け入れ、自分の人生を明け渡した時に、私たちは御霊によって歩み始めました。そしてそれをその後も続けていく必要があるのです。それが我々の性的な部分であろうと、結婚における他の問題であろうと、それを主にゆだねることもできますし、我々の肉によってもがき続けることもできるのです。

 

自分の望むものを手に入れるための手段としてセックスが用いられるようなことは決してあってはなりません。夫婦のベッドは、意思相違から争ったり、自分の望むものを手に入れるための場所になってしまってはいけないのです。主に属しているならば、家庭が主にあって治められるのは主の御心なのです。夫婦が互いに影響力を及ぼそうとして争うような場所があってはいけません。過程において唯一の支配力を持っておられるのは聖霊様だけです。

 

自分の妻や夫を、主の支配の下に完全にゆだねていますか?それともまだ、相手のことを変えようとしたり、自分の意思を相手の人生の上に押し付けようとしていますか?悪魔はこう言います。

「自分のために生きなさい。支配権を握りなさい。踏み込んでいって変えてしまいなさい。」

同じ嘘を、彼はエデンの園でイヴに対して用いました。そして、機会を与えてしまうなら、彼は同じ嘘をあなたに対しても用いるでしょう。けれども神様はこうおっしゃいます。

「私は決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル135)

「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」(ピリピ213)

 

サタンの結婚に関する嘘を信じることを止め、私たちの人生の中にある神様の赦しと愛とに身をゆだねるなら、超自然的なことが起こります。それは、神様が

「私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方」(エペソ320)

だからです。

 

 

第六章

戦いの前の祈り[53]

 

祈った後であれば、私たちは多くのことを為すことができます。

けれども祈る前は、祈ること以外に何もできないのです。

 

あなたが急いで旅に出なければならいとします。家に電話して、留守中の家事をについていろいろと指示を出さなければなりません。あなたの最初の指示はなんでしょうか?どんな優先順位をあなたはお持ちでしょうか?犬のえさ、ドアに鍵をかけること、植物に水をやること、猫を外に出すこと、それともポストから郵便をとってくることでしょうか?リストの最初に来るのは何ですか?

 

第一テモテの手紙は、使徒パウロが、エペソの教会を牧すために彼が派遣した若き同労者に向けて書かれたものです。テモテに対して、パウロはクリスチャンが神の家庭にあってどのように振舞うべきか書き記したのです。根本的に、パウロはここで、家に“電話”して、神様の家にあって何が優先されるべきか、個人個人の人生や結婚生活の中で、そして教会にあって何を第一としていくべきか、そういったことについて話しているのです。パウロはこう書いています。

「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。

それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(第一テモテ21-2) 

 

“勧める”ということばは、とても重要な意味を持っています。私たち全員にそれは語りかけます。まず、パウロがここでどれほど情熱的になっているかを感じ取る必要があります。それは、あたかもパウロ自身が近寄ってきてあなたの肩に腕をまわして彼のもとに引き寄せるようなものです。この言葉の意味するところは、“話しかけ、忠告したり戒めたりすること”なのです。大事な試合で、コーチが選手を呼び寄せ、勝つための戦略を熱心に教え、注意しているような場面を想像してみて下さい。

「こっちに来なさい。君はこのチームの要なんだ。このゲームには勝たなきゃいけない。ほらこれが作戦だよ・・・。」

それこそが、“勧める”という言葉の意味することなのです。

 

これは、人がベンチに腰かけて、コインを上に放り投げて裏表を当てようとする、そういう場面ではありません。結婚生活と神の王国のために、この箇所から何かを得ようとするなら、ここで示されているパウロの情熱と願望とを感じ取る必要があるのです。パウロはこう書いているのです。

「何かをしようとする前に、祈りなさい。」

 

この箇所の中には、祈りについての4つの独特な箇所があります。これは、一つの家の中に異なる部屋があるようなものです。マシュー・ヘンリーは、パウロが書いたこれら4つの部分を、次のように分類しています。

1.懇願     - 悪を防ぐために

2.祈願  良いものを得るために

3.嘆願  他の人のために

4.感謝  すでに示されたあわれみについて[54]

 

これからその一つ一つを見ていきますが、これらが互いの境界線をはっきりさせるのは、容易ではありません。時にはそれぞれが重複することもありますし、自分が祈る時に、その祈りが4つのどれであるか知るということも、それほど重要なことではありません。さもないと祈りそのものが退屈で機械的なものになってしまうでしょう。大事なことは、神様において示されているこれら原則と、我々の人生と結婚とをかけあわせて、私たちが力強く祈ることができるようになることなのです。聖霊様が私たち、そして祈りの内容や焦点をも導いてくださるでしょう。主に対して心が開かれた状態である必要があります。これらの“道具”を用いることができるのも、主の御力によるからです。

 

1.懇願

最初の祈りの種類は、懇願です[55]。この言葉は

「特別な必要に対して恩恵を受けるための祈り」

という意味をもっています。人生の中で何かが起こるとき、私たちは主に懇願します。私がクリスチャンになったとき、ダニータは、私ともイエス様とも何のかかわりも持ちたくない、と願っていました。離婚の危機が近づいていました。この悪い状況のため、数多くの懇願が主に捧げられました。マシュー・ヘンリーが昔言ったように、懇願は“悪を防ぐ”という目的ももっているのです。裁判や、医者の検査の結果、離婚、そういった危機が人生の中で起こっているかもしれません。主への懇願は、こういった悪を防ぎ、あわれみをいただくためのものなのです。

 

同じ言葉が、ザカリヤとエリザベツのお話の中でも使われています。二人のことをご存知でしょうか?彼らの息子は、バプテスマのヨハネで、イエス様のいとこでした。聖書は、ザカリヤとエリザベツの両方が、主の律法にあって正しく、非難されるところのない人だったとあります。けれども、エリザベツは不妊の身でした。二人とも齢を重ねていました。ですから、それはあまり希望があるようには思えない状況でした。夫婦が子供をもてない、というのはつらいことです。それが二人の間で不和の原因になったりします。霊的には、ザカリヤとエリザベツには何の問題もありませんでした。彼らが主の前に正しくなかったから、という理由で神様が子供を授けてくださらなかったのではありません。事実は正反対で、彼らは正しい人たちだったのです。けれども、私たちが良い人の間でも時々目にするように、神様は即時に行動されないこともあるのです。 

 

聖書のルカ書の最初の章には、ザカリヤが祭司の務めをしていた、とあります。他の人々の代表として神殿で仕えていたのです。間違いなくその場で、エリザベツについてのこんな祈りも捧げていたことでしょう。

「神様、私の妻の上にあわれみがありますように。彼女にとって子供をもつということはとても大事なことなのです。私にとってもそうですが、彼女は本当に傷ついてしまっています。」

彼は、懇願を神様に捧げました。彼自身には何の力もなかったからです。そして、ルカ書の113節でこう書かれていることが起こりました。

「御使いは彼に言った。『こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願い(懇願)が聞かれたのです。あなたの妻エリザベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。』」

 

懇願という言葉が使われている別の聖書箇所は、イエス様がゲッセマネの園で祈られた部分です。園のなかでイエス様が祈られ、苦しみの中で汗が血のようにしたたり落ちた場面をご存知でしょうか。主は三回次のように祈られました。

「わが父よ。できますならば、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

これはは懇願の祈りでした。イエス様でさえもが、人としての必要を表現されたのです。イエス様はご自身の神としての性質に頼ってしまうことはありませんでした。主は、私たちが経験することを、ご自身でも経験されたのです。それは、懇願の祈りを通して、父なる神様により頼むことでした。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル57) 

 

祈りは聞き入れられたのに、それでもイエス様が十字架につけられなければならなかったことに注目してください。ご自身を救い出すことのできる方が、祈りを聞かれたのです。実際神様はどのように、イエス様を導かれたでしょうか?十字架へです。なぜならそれが神様の御心だったからです[56]

 

私たちの結婚生活においても、神様の御心というのは介在します。けれどもしばしば、私たちはそれに抵抗し、闘おうとするのです。イエス様のように祈るかわりに、私たちはこう祈ります。

「あなたのみ心ではなく、私の望むようになりますように。なんだって、私をこんな試練に合わせるのですか!」

自分の望むようになるようにと祈ることは良くありません。神様が私たちを困難な状況に置かれたのであれば、私たちは神様が祈りを聞かれ、私たちの必要をご存知で、そして私たちを慰めるために共にいてくださる方であることを信じなければいけないのです。その御心に抵抗するべきではありません。どうして、私たちは“神様、邪魔しないでください。私の望むようにならないんだったら、あなたのことは必要ありません”と言って争おうとするのでしょうか?私たちの嘆願の祈りの結果がどのようなものであったとしても、神様はそれを聞いて、ご存知でおられます。私たちは主の残された足跡にしたがって生きていくべきなのであって、それが十字架に至る道であったとしてもそれは例外ではないのです。結婚においては特に、イエス様のように祈る必要があります。“私の望むところではなく、あなたの御心を為してください”と。

 

 

2.祈願

もう一つの神様とのコミュニケーションの手段は、単純に祈願(祈り)と呼ばれるものです。ギリシャ語でこの言葉が意味しているところは、

「必要なものを手に入れる」

ということです。個人的な必要や、夫婦としての必要のために ~それが霊的なものであっても、一時的なものであっても~ 祈ることは悪いことではありません。それは献身の手段なのです[57]

 

繰り返しなりますが、イエス様が私たちの模範です。イエス様が12人の弟子を選ばれたとき、

「君と、あなた、それからあなた、そして君だ。」

というふうにはなさいませんでした。神の子として備わっていた鋭い判断力を用いられたわけでもありませんでした。人の外見をご覧になられたわけでもありませんでした。聖書のルカ書612節から13節にはこう書いてあります。

「イエスは祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた。

夜明けになって、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、彼らに使徒という名をつけられた。」

主は、弟子をお選びになる前に、一夜を祈りながらすごされたのです。

 

しばしば、私たちはこれとは異なるやり方を選んでしまいます。状況に対して私たちが示す反応は、預言者サムエルのそれに近いかもしれません。第一サムエル記の16章で、神様はこの預言者に、サウルに代わる王を選ぶためにエッサイの家に行くように命じられました。サムエルは行ってエッサイにこう言いました。

「息子たちを連れてきなさい。」

そこで、エッサイは長男のエリアブを連れてきました。サムエルはこう考えました。

「確かに、主の前で油を注がれる者だ。」

サムエルがこう考えたのは、エリアブが力強く、容姿もよく、他の男より背丈も立派だったからです。けれども神様はこう仰せられました。

「わたしは彼を退けている。」

人は外見を見ますが、神様は人の心をご覧になるのです。

私たちは、人の外見を見て

「この人はとても魅力的な外見を持っている。神様が用いることのできる人に違いない。それに頭もいいし、勤勉だ。良い外見を持っていて、頭のいい人を私たちは必要としているんだ。それにこの人はユーモアももってるぞ。まぁ、それはおまけみたいなものだけど。お金も持ってるみたいだし、この人を仲間にしよう。」

というふうに考える傾向があります。イエス様がなされたように決定を下す前に祈るのではなく、外見で決めてしまおうとするのです。人が見過ごしてしまうような存在が、しばしば神様が選ばれるその人であったりするのです。これは、神様があなたのために用意されている伴侶を選ぶ上でも、とても大変な法則です。 

 

初期の教会は、祈りを優先事項としていました。それが鍵となる部分だったのです。使徒の働きの242節にはこうあります。 

「そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。」

私たちも、夫婦いっしょに祈る必要があります。朝一緒にいるとき、仕事に向かう途中、教会に行く時、食事のとき、夜などに一人で祈り、またいっしょに祈ってください。常に祈っている必要があるのです。祈りは、神様があなたの人生において、そして結婚生活や家庭、または教会において働かれることを可能にするのです。

 

私たちが超自然的なことを目にしないのは、もしくは神様が望まれているほどには目にしないのは、私たちが祈らないことが原因だと、私は信じています。宗教的なことをたくさんやりますが、~それが悪いというつもりもありません~ 最初にくるべき重要なことは、祈りであるべきなのです。

 

120年ほど前のある夏の木曜日、こんなことがありました。多くの資料や、法的文書によって真実が証明されているできごとです。

 

ノース・キャロライナ州のスワン・クオーターという土地には一つだけ問題がありました。そこが低地だったということです。自然に、人に好まれるのは高い場所にある土地でした。豪雨の際は、海抜ゼロに近づけば近づくほど、土地の受ける被害は大きくなるのです。

 

スワン・クオーターのメソジストたちには、教会堂がありませんでした。唯一空いている土地は、オイスター・クリーク通りに面している低地の1画だけでした。理想的とはいえない場所でしたが、彼らはその土地を購入し、建設が始まりました。それはレンガの土台に支えられた、白く、小さいけれども丈夫な建物でした。1876年に建物は完成しました。そして916日に、献堂式が行われました。

 

三日後の水曜日、強い嵐がスワン・クオーターを襲いました。終日風が吹き荒れ、雨が灰色の滝のように降り注ぎました。夜になって被害は大きくなりました。町の大部分が浸水し、ハリケーンのような風によって多くの屋根が吹き飛ばされました。嵐は夜を通して荒れ狂い、翌朝にようやく静まりました。木曜の午後には風もおさまり、雨も弱くなりました。

 

過去24時間以上なかったような、不気味な静けさがそこにはありました。スワン・クオーターの住民はひとり、またひとりと雨戸をあけ、被害の様子を確認し始めました。多くの人には、その荒れはてた景観だけが目に入りました。自然によって打撃を受けた町並みです。けれども、オイスター・クリーク通りの住民は、世にも不思議な光景を目にしました。スワン・クオーター・メソジスト教会の建物が ~建物がそっくりそのまま~ 道に浮いていたのです。

 

洪水は、建物全体を支えていたレンガから、建物自体をゆっくりと押し上げ、静かにオイスター・クリーク通りへと押し流したのです。しばらくすると、心配した何人かの住民が腰まで水に浸かってやってきました。流れに逆らいながら、まだ動いている教会堂にどうにかして縄をかけようとしたのです。縄はかかりましたが、効果はありませんでした。縄をつないで、押し流されている教会堂を支えきることのできる堅固な建物がなかったからです。

教会堂が流されるにつれて、多くの人が集まってきましたが、効果はありませんでした。建物は流されるままだったのです。やがて、建物はオイスター・クリーク通りを経て、街の中心部に差しかかりました。そして、驚異的なことが起こりました。多くの人が見ている前で、その教会堂は、浮いたままで、説明しようのない急な右折を行い、別の通りの方へと流れていったのです。それは、建物が生きているか、自分の意志をもっているかのようでした。二ブロックほどの間、町の住民は縄を用いてその建物を押し留めようとしましたが、効果はありませんでした。けれどもある時点で、最初それが動いていたときと同じような決然たる様子で、教会堂は方向を変え、そこにあった空き地の中心へと動き、そこで停止したのです。

 

洪水が収まっても、教会堂は無事でした。今日もそれは、そこに建ちつづけています。高地にある高価な土地が、その教会を建てる際の第一希望の場所でした。教会員たちは、価格を提示し熱心に祈ったのですが、その土地を手に入れることはできませんでした。土地の所有者だった、抜け目のない人お金持ちは、売ることを拒否したのです。けれども洪水の翌朝、教会堂が自分の土地の真ん中に建っていることを知った彼は、まっすぐにメソジスト教会の牧師のものとに向かい、震える手で土地の権利書を手渡したのでした。

 

ここで私たちが見るのは、間違いなく

「義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ516)

ことの例です。祈りが、結婚においても不思議なことをもたらすことを、知っておいてください。神様は、あなたを試練の中から理想的な状態へと動かすことのできるお方なのです。

 

 

3.嘆願(とりなしの祈り)

3つ目の祈りの種類は、嘆願とか、とりなしと呼ばれるものです。これは、他人をとりなす為の祈りです。

 

私は、自分がどのように祈るべきかいつも知っているわけではありませんが、聖霊様はどのように祈るべきかご存知です。イエス様は、私が祈る前から私の必要を知っておられます。ですから、私をとりなしてくださるのです。ローマ人への手紙8章の26-27節にはこうあります。

「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」

 

聖霊様は、私たちがどのように祈ってよいかわからないときに、私たちのためにとりなしてくださいます。ローマ人への手紙834節にはこうあります。

「罪にさだめようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」

ですから、聖霊様だけでなく、イエス様も私たちのためにとりなしてくださるのです。

 

神様の御座の前に進み出て、

「主よ、私の前をお進みください。この状況の中で仲裁者となってください。どのように祈ってよいのかわかりませんが、主よあなたはご存知です。あなたは全てをご存知ですから、とりなし、私を弁護してください。」

と言う時、そこにあるのはとりなしの祈りです。(自分の結婚生活が絶望的な状態にあったとき、私はたくさんの夜を、このような祈りのなかで過ごしました。そりの合わない夫婦で、何も変化することがないように思えましたが、やがてそれらは変えられたのです。)

 

他の人のためにとりなしの祈りが用いられることもあります。あなたの伴侶のためにどのように祈ってよいのかわからないこと、そして相手も自分のためにどのように祈ればよいのかわからないこと、そういうことは沢山あります。ですから、

「主よ、彼(彼女)を取り扱ってください。または祝福してください。あるいは必要とされているやりかたで触れてあげてください。何が必要とされているかは、主よあなたがご存知です。彼(彼女)の人生において動いてください。」

と祈るのです。

聖書にはこうあります。

「したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル725)

私たちのためのとりなしの大部分は、主ご自身と聖霊様によってなされるという点に注目してください。

 

夫婦はよく食事の前にいっしょに祈ります。そしてその祈りによって食物は清いものとされます。この習慣をどこで私たちは身につけたのでしょうか?第一テモテ4章の4-5節からなのです。

「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。神のことばと祈りとによって、聖められるからです。」 

 

ヤコブはこう書いています。

「ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。」(ヤコブ516)

聖書は、私たちが互いのために祈り、とりなしあうように熱心に勧めています。これは、特に結婚を聖いものとするために有益なことです。

 

 

4.感謝

最後の種類の祈り ~家の中の四つ目の部屋です~ 、は感謝の祈りです。感謝という言葉は、ギリシャ語の“ユーカリスティア”[58]からきています。英語の“ユーカリスト”[59]という言葉も、ここから来ています。これは、“礼拝を通して神様に感謝すること”を意味しています。つまり、神様に賛美と感謝とを捧げることなのです。

 

感謝をささげていないために、祈りが答えられないということがあります。私の意味するところはこうです。私たちは“恩知らずの9人”のようです。ルカ書の17章で、イエス様がらい病人を癒されたとき、ただ一人だけが戻ってきて感謝したのを覚えているでしょうか?すでに答えられた祈りに対する感謝が欠けているために、現在の祈りも、信仰と力とが欠けたものになってしまうのです。R. A. トーリーは、“どのように祈るべきか”という本の中で、この教訓について詳しく語っています。神様がなされると約束されたことを信じ、祈りを力強いものとできるかどうかは、神様が今までに為してくださったことに私たちがどれだけ感謝をささげているかに影響をうけるのです。

 

聖書にはこうあります。

「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(第一テサロニケ518節)

感謝の心をもつようにならなければいけません。主が私たちのために為してくださったことをふり返り、それらに思いをとめ、それらを列挙し、主に感謝する必要があるのです。

 

自分の伴侶のことを毎日神様に感謝してください。結婚における問題について考え込むのではなく、二人が分かち合うことのできる祝福について、神様に感謝してください。相手の長所に目をむけ、そのことを感謝してください。結婚における問題について心配してしまうこともありますが、聖書にはこうあります。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を紙に知っていただきなさい。」(ピリピ46)

結婚生活における、難しくて痛々しく、困難な問題について祈る時、私たちは神様に感謝をささげているでしょうか?神様に感謝することは祈りの一部なのでしょうか?聖書は私たちがそうするべきだと書いています。そしてそれを行うとき、素晴らしいことが起こるのです。

 

 

 

王のために祈ること

 

パウロは、私たちが“すべての人のために”祈るように書いています(第一テモテ21節)。不信者のために、クリスチャンのために、そして敵や友のために私たちは祈るべきなのです。当然私たちの伴侶のためにもです。

 

一世紀には、ラビ達は異邦人のために祈ったり、心配ごとを抱えたりするべきではないと教えていました。彼らにとって異邦人は、地獄の火のためにつくられた薪のようなものだったのです。(ユダヤに属さない世界について、彼らはとても陰気な見方をしていました。)

けれどもクリスチャンには、キリストイエスにあってそういう差別や分裂はありません。私たちはすべての人のために祈ります。神様はすべての人が救われることを望んでおられるからです。パウロは2節で続けてこう書いています。

「(また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。)それは、私たち敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」

 

キリスト教のポジティヴな面がここにあります。世の統治者のために私たちは祈るべきなのです。しばしば(正当な理由によることもありますが)教会は、この世がやっていること全てに反対し、政府や政治家に対してデモを行ったり、非難したり、ロビー活動をやったりするとして非難されてきました。それが有害な場合は反対の声をあげることも必要ですが、不幸なことに私たちは全てのことに対して反対しているような評判を受けてしまっているのです。

 

抗議活動に費やすのと同じだけの労力が祈りに費やされるなら、もっと大きな前進がそこにはあるかもしれません。ロビー活動や抗議集会、デモ、そして非難などに集中しているなら、それは肉の力で社会を変えることができると私たちが言っているのと同じことなのです。神様頭をかきながらこう思われているでしょう。

「なんでお前たちは私に祈って、私が人の心を変えるようにしないのだ?」

うわべを飾ることはできますが、その後ろの骨組みがぼろぼろなら、建物はすぐ壊れてしまいます。けれども内側を変えれば、問題を解決することができるのです。結婚においても同じことが言えます。自分の伴侶が“宗教的な行い”をやるように抗議したり圧力をかけることはできますが、心を変えることができるのは祈りだけなのです。

 

これが、私たちが祈らなければならない理由です。人の心が、神様の力によって変えられるように祈っていく必要があります。箴言の211節にはこうあります。

「王の心は主の手の中にあって、水の流れのようだ。

みこころのままに向きを変えられる。」

変化を与えていこうとする動きの一部を担う必要が私たちにはあるのです。けれども、私たちが外面の変化にのみ集中してしまうのなら、神様はきっとこうおっしゃるでしょう。

「何をやろうとしているのだ?お前が(人を)私の王国に迎え入れるのではなくて、私だけが私の王国に迎え入れるのだよ。だから祈りなさい。」

 

初期教会の指導者だった、タータリアン[60]はこう言いました。

「私たちは全ての皇帝たちのために祈ります。神様が彼らに長寿を授けてくださるように、政府が安定するように、家族の繁栄のために、強い軍隊のために、忠実な議会のために、従順な人民のために、そして世界が平和であるように。神様が、シーザーとすべての人がそれぞれの望んでいるものを達成することをお許しになりますように。」

同時代に生きていた、オリジェン[61]はもっと急進的でした。彼はこう言いました。

「私たちは、王と支配者たちのために祈ります。知恵と思慮深さとが、国王の権威と共にありますように。」

彼は、私たちの祈りが、“平和を乱し、戦乱を引き起こそうとする悪魔に打ち勝つ”ことを願ったのです。

 

妻たちも、家のかしらである夫たちのために祈るべきではないでしょうか?そして、夫たちは、家庭や子供たちに対して妻がもっている大きな責任が、神様によって導かれたものとなるように祈るべきではないでしょうか?私たちが同じことを、国の指導者たちに対して行うべきなのであれば、それを家庭の中においても行うべきではないでしょうか?

 

ここに、クリスチャンの夫婦が、自分たちの国のために神様を求めながら祈り、共に労する機会があります。人々は私たちのことを、すべてのことに反対する、敵対的で不満を抱えたクリスチャンだと思っているかもしれません。政府や指導者たちのために祈ることは、こういう誤った見方を打ち砕くことになります。人が望むのは、自分のお金が奪い取られるのではないかと心配しているような人間ではなく、神様にあって彼らのために祈りをささげてくれるような普通の市民なのです。こういったことがよくテレビで放送されているので、理解することはできます。けれども彼らが常に目にするのが、全てのことを批判するだけのクリスチャンだとしたら、彼らをキリストのもとに勝ち取っていくことは決してできません。彼らの心を勝ち取るならば、彼らの人生の残りをも勝ち取ることになるのです。安全な国家が、平和な社会をつくります[62]。ですから、私たちは国の指導者たちのために祈らなければいけないのです。良い統治者たちは、国家や家庭のためにたくさんの良いことをする力があるのですから、それが続けられるように祈りましょう。悪い統治者は、同様にたくさんの悪事を行うことができます。ですから神様がそれを妨げ、防がれるように祈る必要があるのです。国家と私たちの家庭がどれくらい健全であるかは、その統治者の性質にかかっています。けれどもそれが良いものであれ悪いものであれ、私たちには神様を通して統治者に直接影響を与えていく力があるのです。これは全ての結婚した夫婦が行うことのできる、偉大な奉仕なのです。

 

私たちの祈りはどこまで続くのでしょうか?[63]

「それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(第一テモテ22)

平安は、何もないところから社会に平和をもたらします。静かな一生とは、私たちの内なる平安のことです。ですから、私たちが統治者たちのために祈る時、私たちは“敬虔のうちに”外に静けさを、そして内に平安を持つことができるのです。敬虔さとは、私たちと神様との関係のことです。威厳は、私たちが他の人たちともつ関係のことです。これは単純に他人に対するまっすぐで正直なふるまいのことなのです。

 

 

第七章

 

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。

大事なのは新しい創造です。(ガラテヤ615節)

 

文化の衝突 - ジムとテリの場合

 

ジム・ローニーは、私たちのミニストリーのスタッフで、テリは私たちの本屋さんの店長です。二つの全く異なる文化が、キリストにあって一つになろうとする過程で、彼らは12年の歳月を霊的戦いのなかで過ごしてきました。以下は、彼らのお話です。

 

テリとアンソニー(テリの最初の結婚で生まれた5歳の息子です)は、テリの両親と共に住んでいました。テリは日本人と中国人の混血でした。この二つの文化の中では、家族という単位が個人よりも優先されます。テリの父親は成功している会社をいくつかもっており、子供たちも家族のビジネスのために働くことを期待されていました。それが世代を超えた伝統だったのです。

 

教会で行われるカジュアルな集まりや、バイブル・スタディで、テリとジムは出会いました。時がたつにつれて、二人の関係は深くなっていきました。テリの両親は、ジムがアイルランド系で、日系でないということに困難を覚えていました。ジムもテリの家族との接点を失っていました。彼が、テリの父親(一族の長として権威をもつ存在です)に頭を下げる習慣を拒否したからです。文化の衝突が深まっていきました。

 

最初の頃は、ジムの性格と信頼性とに攻撃が集中していました。ジムとテリの関係が深まるにつれて、二人とテリの父親との関係は悪化していきました。夕食への招きを通して、ジムは歓迎されていないということが陰険な方法で示されることがありました。食事は準備されているのに、ジムはそこに存在していないかのように、ジムの分だけテーブルマットが準備されませんでした。これはジムが家族の一部ではないという暗黙の意味合いをもっていました。

 

ジムとテリを挑発して、彼らのクリスチャンとしての証を駄目にしてしまうような反応を引き出すようなことも、家族は行いました。中国の祝日に、家族が先祖のお墓参りに出かけたとき、状況はさらに悪化しました。アルコールをささげ、道教の教えに従ってお金を燃やすのですが、ジムとテリがこれに参加するのを拒んだ時、家族は非常に気分を害しました。ジムは、アジア系の人種を憎みその文化や信仰に敬意を払わない人間として非難されました。テリは、自分の文化に背を向け、仏教や道教の寺院を訪れないことで家族を辱めているとして責められました。

 

教会と家庭集会とが、ジムとテリの避けどころとなりました。この時点で、彼らの霊的な意味での家族は、多くの意味でテリの実際の家族よりも近しい存在になっていました。ある晩の家庭集会で、一人のクリスチャンの女性が、テリが闘っているのは“霊的な戦い”なのだということを示してくれました。彼女の両親がジムに対する憎しみを、言葉にすることができないのを思い起こした時、テリはそれが真実であると認識しました。この霊的戦いの期間を通してテリを慰め、支えたのは次の聖句でした。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(第二コリント417)

 

ジムとテリの結婚式で、全てが悪い方向へと変わりました。テリの父親はやり方を変え、テリの忠誠を取り戻そうと、最後の試みを行ったのです。結婚式のなかで、彼はテリを勘当すると脅しました。書類を抱えてやってきて、結婚するなら、その書類にサインをするようにテリに迫ったのです。書類は簡単にいうと、収益を上げているビジネスからテリを追放し、家族の遺産の所有権も奪い去るという内容のものでした。テリの心の痛みは増すばかりでした。彼女が幸せであるはずのの結婚式で、彼女を育ててくれた、尊敬し愛する両親が、非常に冷酷な様子で振舞ったのです。喜びを示してくれる代わりに、テリの家族はジムとテリとを別れさせようと最後の試みを行ったのでした。

 

痛みからくる涙のなかで、霊的な戦いをはっきりと見るのは、時には難しいことです。結婚の後、テリの父親は、ひどいメッセージをテリの留守番電話に残すようになりました。それでも結果が出ないのを知ると、彼は今度は、孫にあたるテリの6歳の息子に働きかけるようになりました。

 

この時点で、法律的にジムはアンソニーを自分の子供としていました。テリの家族はアンソニーに対して、テリの“クリスチャン時代”が過ぎ去ったら、すぐに全てが元通りに戻るのだと話しました。テリとアンソニーは、再びおじいちゃんやおばあちゃんと一緒に住むことができて、日本に行ったりできるし、おじいちゃんはアンソニーの欲しいものは何でも買ってくれるだろう、と。

 

このときアンソニーはわずか6歳でしたが、両親に対して、彼が霊的な戦いの中にいること、ビル牧師のところへ霊的問題のカウンセリングを受けに行く必要があることを伝えました。一家は疲労困憊していました。感情的に疲れて、大きなストレスを感じていたのです。物事が非常に悪化したあるときのことを、テリはこうふり返ります。

「私の家族が主を信じるようになるかどうか、ということさえもう気にはなりませんでした。」

家庭集会は、彼女の両親が救われるようにずっと祈り続けていました。そして、ジムとテリは、これが“霊的戦い”なのだということをもう一度思い起こさせられたのです。

 

テリの両親は、彼らに話しかけるのを止めました。孤立させれば、それが結婚の不和を生み出すだろうと考えたのです。ですから二年間もの間、お互いに10分ほどの距離に住んでいたにも関わらず、テリとジムがテリの両親と言葉を交わすことはありませんでした。

 

これらの問題が、ジム、テリ、アンソニーを別つことはありませんでした。むしろ家族としてそれぞれが近くなる役割を果たしたのです。両親からの攻撃に対しては身を縮めるだけでしたが、キリストにあって彼らは一体だったのです。祈りと交わりの中で、彼らの絆は強くなりました。教会と家庭集会とが再び彼らの家族となったのです。

 

この時期に、テリの父親は前立腺がんを患うようになりました。テリの母親は、これをテリに伝えようとしなかったため、自分の死の床にあって自分の娘と孫が見舞いにも来ないことについて父親が痛烈な内容の手紙を書くことになりました。家族の全員に対して、ジムとテリがいかに冷酷でひどい人間かを、テリの父親は言いふらしました。家族の彼らに対する評判は地に落ちてしまい、長い間彼らはその嘘を信じた家族と友人たちからの侮辱や軽蔑に耐えなければなりませんでした。

 

真理と伝統とが衝突する時には火花が散ります。伝統は簡単には打ち破られません。イエス様もそれ故に迫害を受けられました。これを通して、ジムとテリは神様が何に代えてもテリの父親を救われるように祈ったのです。

 

癌はよくなりましたが、11年後にひどい状態で再発しました。テリの父親は入院し、自分の状況が良くないことを知りました。化学療法と放射線治療が彼を弱めていきました。教会の人は愛をもって、彼を訪ねたり、音楽を演奏したり歌ったり、そして彼のために祈ったりしました。家族のメンバーにかかった負担は多大でした。病院での徹夜の看病が、彼らが日常的な活動を行うのを妨げました。ジムとテリは軽蔑されたままでしたが、毎日食事を用意して家族のもとに届けたのです。

 

この試練をとおして、神様はテリの父親の心に働きかけてくださいました。そして、ジムとテリが耐えてきた霊的戦いも実を結ぶことになったのです。彼はようやくジムとテリが正しかったことを認めました。(ジムとテリが)尊敬に値するやりかたで、全てのことを耐え忍んできたことは、彼に対する大きくて明瞭な語りかけとなったのです。けれども究極の勝利は、ジムが病院で死にかけている彼の義父をキリストのもとに導いた時にやってきました。ジムはこう言います。

「私の敵は、死の直前に私のキリストにあっての兄弟となったのです。」

12年にわたる霊的戦いが報われる時が来ました。それは二人に、祈りをとおして人を神の王国へと導くことを教えました。

 

このことはまた、まだ小さく霊的戦いの中で育てられたアンソニーに“よく闘う”ということはどういうことなのかを見せることになりました。大学に進学する前の18歳のときに彼は、両親が日々をイエス様の

「あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ628)

という御言葉に従うことを通して、自分の祖父がキリストを信じるようになったのを目にしました。

 

神様がなさってくださったこと、今もなさってくださっていること、それらを通してジムとテリが得た喜びは、彼らの傷心を覆うようなものでした。彼らは今もこう言います。

「私たちの家族や親戚のためなら、もう一度はじめから同じ事を経験しても構いません。」

 

 

霊的な虚飾の危険性 ― ジェリーとジョアンナの場合

 

ジェリーはカルバリーチャペル・ホノルルにおける、あるミニストリーのリーダーでした。彼の妻ジョアンナと共に、教会の中でも非常に目立つ重要なポジションにいました(彼らの名前といくつかの詳細は、彼らのプライバシーを守るために変更してあります)。以下が、彼らのお話です。

 

出会ったとき、ジェリーとジョアンナは普通のクリスチャンでした。二人とも早い時期にキリストを受け入れていましたが、どちらも本当にキリストと共に歩んでいたわけではありませんでした。二人は職場で出会い、嵐のような、けれども世俗的な恋愛をするようになりました。時間が経つにつれて二人の愛は深まり、イエス様が必要だという感覚も増していきました。

 

彼らは、カルバリーチャペル・ホノルルに出席し始め、イエス様や、彼らの人生におけるイエス様のご計画について学び始めました。

「それは、それまでに二人でやったことの中で最良のものでした。」

と二人ともが言いました。

主に近づくにしたがって、二人の関係も近しいものとなっていきました。霊的に、そして感情的に成長していくにしたがって、二人の関係が新たなものにされていくのを、二人は楽しみました。やがて二人は同じゴールを描くようになりました。ほどなくして二人は婚約し、10週間の結婚前のカウンセリングを受け、夫と妻になりました。

 

結婚の最初の4年間は、“この世の天国”のようでした。二人ともとても幸せで互いを愛し合っていました。けれども、結婚は庭のようなもので、継続的な雑草取りを必要とします。敵のイバラやアザミが神様のよい働きを阻害することがないように気をつけなければいけないのです。ジェリーとジョアンナの生活は、この世という雑草に阻害されるようになっていきました。ジョアンナは、大学で勉強しながらフルタイムで働いていました。ジェリーは仕事を二つ持つ身でした。ジェリーはこうふり返ります。

「イエス様以外の何かのために忙しくしているのは、問題の原因になるんですよ!」

そして、それこそが二人に起こったことでした。

 

クリスチャンの夫がどのようなものかジェリーは知っていましたが、それを実践していくことに失敗してしまいました。いつも、正しいクリスチャン的なことを言いましたし、家の中での言い争いはめったにありませんでしたので、全てが上手くいっていると考えてしまったのです。敵は、彼が真実な愛やロマンスという本質的な部分を放ったらかしにしていたにも関わらず、虚飾のクリスチャン用語を使っていればそれで大丈夫かのように思い込ませたのです。

 

ジェリーが、クリスチャンの夫としての地位を保っていた間に、ジョアンナは彼から離れ、彼女の同僚の一人と親しくなり始めました。時間が経つにつれて、その職場恋愛も進行していきました。やがて、ジョアンナは、もう彼のことを愛していないということをジェリーに告げたのです。

 

どうやったら他の男性のために、主と夫の間にあった全てのものを投げだすことができるのか不思議に思いましたが、ジェリーにとってそれは、“目を覚まさせる”声でした。私たちが人としての限界に到達する時、そこは神様の領域の始まりです。ですから、ジェリーは“これまでにないほど”主にたいして祈るようになりました。

 

最も安全で最良の場所は、イエス様に近い場所だということを、ジェリーは教えられました。時間が経つにつれて、ジョアンナと話すことにも困難を覚えるようになり、やがて離婚が話題に上るようになりました。二人が別れることは避けられないことのように見えました。状況からくる緊張感は、ジョアンナをも疲れされ始めていました。彼女はどこを向けばよいのか分からない状態にありました。その時の精神状態で、神様のほうを向くことができるとは思えませんでした。彼女は既婚女性でしたが、彼女の夫ではない別の男性に強い感情を抱いていたからです。

 

悪魔は、罪を魅力的で手に入れやすいものにします。私たちがそれに食いつくと、今度は神様が近づきようのない存在であるかのように見せかけ、その罪から逃げ出すことはできないと信じ込ませるのです。

 

教会がなんと言おうと、家族がなんと思おうと、そして彼女のクリスチャンではない友達たちの助言にも関わらず、ジョアンナはジェリーから離れていく気持ちでいました。彼女の内側では戦いが行われていました。彼女はこうふり返ります。

「とても小さな声が、正しいことをやるように私に語りかけていました。けれども私は自分のもっている全てのものを使ってその声と戦っていたのです。」

この時点で、彼女がジェリーに昔抱いていた気持ちは、もうなくなっていました。けれども、彼女はこう言われました。

「主にあって、結婚についての正しい決定を下しなさい。感情は後からついてきます。」

ジョアンナは後になってこう証しました。

「今からふり返ってみると、その時私の結婚が守られるように起こっていたすべてのことは、神様から出たことで、私自身から出たものは何もありませんでした。」

 

ジョアンナは、“決断の谷”におり、ジェリーから離れました。ジェリーと再開したとき、彼女は物事を正しく行うということを決めた、と彼に伝えました。それは、神様がラザロを死からよみがえらせた時のようでした。けれども、心の傷や不信感、そして裏切られたという感情、そういった“死者の衣”が、二人から取り外される必要があったのです。二人の荒れ果てた関係に、新しい命を吹き込むのは、ジェリーにもジョアンナにも不可能なことのように思えました。けれども神様とって難しいことは何もないのです。(エレミヤ3217)

 

ダニータと私は、ジェリーとジョアンナに対するカウンセリングを行いましたが、二人の互いに対する愛が“生命維持装置”が必要なほど弱っているのは明らかでした。さらにややこしいことに、ジョアンナが、その男性によって妊娠していることが判明しました。その状況と向き合うかどうかジェリーは真剣に悩みました。関係を元の状態にもどすということは、彼が他の男性の子供の父親になるということを意味していたのです。彼らは疲れ、打ちのめされ、底まで落ちてしまったかのように感じていました。けれども主がそこで働かれ始めたのです。

「今振り返ってみると、神様はそこで私も砕かれていたのだということがわかります。」

とジェリーは言います。

「落ちるところまで落ちてしまうと、上におられる主以外に見るものはなくなってしまうのです。」

 

ジェリーとジョアンナはこう決めました。

「主よ、もうあなたにお任せするしかありません。」

そして、主にあって再び一緒にやっていくと決めたとき、神様の御言葉が彼らの力となりました。

「私たちは、もう一度最初から主を愛するようになりました。そして、今までなかったように互いを愛するようになったのです。」

彼らはこう証します。

「今私たちは3人家族です。一人の娘と、愛のある関係とで祝福されています。そして、今は神様の御前に純粋で非難されることの状態で進みでることができるのです。」

 

どのような状況にあっても、神様の働きは人をそこから救い出すことのできるものです。私たちは神様によって養子とされた子供たちなのです。そして神様は私たちを非常に愛してくださっています。私たちは迷えるものでしたが、私たちがどのような者であったかに関わらず、神様は私たちを引き戻してくださいました。神様は良い働きを私たちのうちに始め、そしてそれを完了させてくださいます(ピリピ16)。その働きとは、私たちが主のようになり、主のように赦し、主のように行動することなのです。主に身を任せる人に、主は未来と希望とを備えてくださるのです(エレミヤ2911)

 

 

赦し、神様にゆだねること ― ケビンとジャネットの場合

 

内面を見ると落ち込みます。

外面を見ると苦しみます。

イエス様を見れば、休息があります。[64]

 

ケビンと、彼の妻ジャネットは、カルバリーチャペル・ホノルルの様々なミニストリーに関わってきた夫婦です。以下にあるのは、ジャネットが話してくれた彼らのお話です。妻の視点に立った、素晴らく洞察に富んだ証だと思います。

 

私たちの結婚の最初の頃をふり返ってみると、いくつかの霊的戦いがあったのが思い出されます。その渦中にいた時は、自分たちは普通の、もがいているクリスチャンなのだと思っていました。クリスチャンの妻・母親として、また夫・父親として日々を一生懸命いきているだけなのだと考えていたのです。

 

結婚生活が7年(クリスチャンとしては4年です)に及んだとき、全ての夫婦がストレスを感じる時期がやってきました。私はよちよち歩きの子どもを二人抱えた専業主婦でした。金銭的にとても厳しい生活をしていました。絶望的なほどロマンチックで、非現実的なイメージを結婚に抱いていたので、どのようにしたら私を幸せにできるか、自分の夫はいつも知っているものだと思っていました。私が必要なときにはデートに連れて行ってくれるものだと思っていましたし、喜んで私のそばに座ってお話ししてくれるものだと考えていました。助けを求めたり、自分がどのように感じているか、などを彼に伝えるのは、私にとっては自然にできることではありませんでした。自然にできたことと言えば、私の大好きな3人の人について考えることでした。自分、自分、そして自分、です。

“私のことはどうなるの? 私の必要は? 一人で生きてるほうがマシだわ。”

というのが私の思いでした。

 

クリスチャンになって4年でしたが、私はまだ自己中心で、自分のことばかり考えていました。悪魔は私の思いの中で活発に活動していました。それは抑制されないままの状態でした。自分の行動をコントロールすることはできましたので、罵ったり、悪口を言ったり、怒鳴り声をあげたりすることは、夫にも子供に対してもありませんでした。けれども私の思いはコントロール不能な状態でした。内省的な傾向のある私の性格を悪魔は利用しようとしました。私を誘惑し、私はそれにのってしまったのです。

 

こういった思いは何日もの間続き、やがて私は、全て夫が悪いのだと信じるようになりました。自分自身には何も悪いところはないと思いました。私の思いは、延々と彼の悪い部分や、彼が改めなければならないことを挙げ続けました。

 

あるとても寂しい夜に、疲れきった私と子供たちのもとに、疲れきったケビンが帰ってきました。静かな夕食と、読書の時間を私たちはとりました。一緒にですが、孤独のなかでです。少なくとも私は孤独でした。彼はベッドに向かい、私は起きていました。

 

普段私が自分の自由にできる時間は、夜遅くだけでした。その時間だけは、他の人の必要を満たす必要もなく、物事を考えることができました。ある夜に私は、夫が私のことをどれだけひどく扱っているか、どれほど彼が変わる必要があるかを書き記した怒りの手紙を夫に対して書き始めました。本当に何ページもの紙を、夫の欠点に対する指摘で埋め尽くしたのです!そして、夫が翌朝キッチンに来た瞬間にそれを見ることになるように、その手紙をテーブルの上に残しておきました。そして私は、彼が自分の欠点を正確に知ることができるだろうということに安堵の気持ちを覚えながらベッドに入りました。幸いなことにそこで神様が介入されました。聖霊様が助けにこられたのです。

 

奇妙なことがおきました。真夜中にトイレに行くために私は目を覚ましました。キッチンのほうに目をやると、月の光があのひどい手紙の上にスポットライトをあてているように見えました。主に導かれるようにして、私はその手紙をとり、細かく引き裂いて捨てました。

 

翌日の朝のデボーションのときに、私の目の中の梁があまりにも大きすぎるため、私が自分の欠点をみることができないのだ、ということを主が私の心に語りかけられました。それまでは、自分の行いをどのように変えていくかということについては、私は聖霊様が働かれるのを拒んできました。自分の夫の欠点に思いを集中していたからです。主は、私の欠点のいくつかを示してくださいました(人の欠点ばかり目に付くことや、自分をいらだたせるようなことに、気をつかいすぎることなどです)。そして主は、私が変わっていくのには多くの労力が必要となること、夫のことは主にゆだねて、自分の欠点を変えていくことに集中すべきであるということをはっきりと示してくださいました。実際、主こそが神なのですから、二人同時に変えていくということも主には可能なわけです。

 

私の小さなことへのこだわりや、マイナス思考を利用して、敵は私の結婚を破滅させようとしていましたが、聖霊様が私をそこからひき離してくださいました。サタンは、私の思いを使って、私を神様の御業からひき離し、否定的なことにばかり目が行くようにしようとしていたのです。それは思いという場所での戦いでした。ピリピ48節にはこうあります。

「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、賞賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」

 

実際のところ、年を経るにしたがって私の夫は、私に対してもっと敏感になっていきました。私のほうも自分の必要を彼に伝え、分かち合うことができるようになってきました。今日に至るまで私は、夫を神様の御手の中にゆだねています。私が神様の御手からそれを取り返そうとするときは、私の弱い部分について、神様がまだ残されている多くの働きについて思い起こさせてくださいます。ですから、私は引き下がってこう言うのです。

「やりましょう、主よ。私を変えてください。彼のことは後でも構いません。」

 

後ろに下がって、神様があなたの結婚に働きかけてくださるのをご覧になることをお勧めします。主のあわれみによって、主が霊的戦いをも私たちのために戦ってくださることを可能にすることによって。ケビンと私は30年にわたる幸せな結婚生活を経験してきました。すべての賛美を主に捧げます。

 

 

妻の祈りからくる力 ― スティーヴとウェンディの場合

 

スティーヴとウェンディは、カルバリーチャペル・ホノルルのミニストリーの重要な部分を担ってきました。二人は、ハワイにある二つの妊婦救済機関[65]を設立し運営してきました。それは何千もの女性への助けとなり、数え切れないほどの胎児に生きるチャンスを与えてきています。祈る妻からくる力は、神様の御手の内にある素晴らしいことです。クリスチャンの妻として、ウェンディは継続的にスティーヴのために祈りました。彼女はまた、彼らの5歳になる息子のアロンが

「神様、お父さんが家に帰ってくるように祈ります。」

と言うように教えました。スティーヴは、神様が彼の反抗的な心をどのようにしてキリストのもとに向けられたかを、次のようにふり返ります・・・。

 

どういうわけか、私は自分のゴールは妻を手に入れ、2.5人の子供をもち、犬を飼って、白い柵がついた家に住むことだと決めていました。22歳になるころには、全くその通りのことをやっていました。けれども、自分の内側の深いところでは何かが欠けていましたので、それをワインや女性、歌などで満たそうとしていました。でも何をやっても残るのは空しさだけでした。その空しさを消すために、ボート、車、馬などの多くの高価な“もの”を買いました。妻と子供から離れて、別の女性と関係をもったりもしました。

 

その後3年間、私は乱れて狂ったような生き方をしました。自分が自己中心的で、家庭を傷つけているということを理解していませんでした。妻はよく、クリスチャンのテープを私の車のステレオにこっそり入れておくということをやりました。私はそのテープを時速90キロの車から投げ捨て、それがどれくらい遠くに飛ぶかを眺めて楽しんでいました。

 

ある日私は、新車のジャガーを運転して、飛行機を買うために空港に向かっていました。それで幸せになれるとは到底思えませんでした。何をやったとしても、自分の人生から空しさを消すことができないということにようやく気づいたのです。人生がそんなものなのなら、このジャガーをレンガの壁に突っ込ませて死んでしまったほうがよいと思いました。自分の内側の飢えを満たせるものは何もなかったのです。時には、神様に祈りさえしました。けれども、聖書を読むのは退屈だし、教会に行くのは重労働でした。自分にはほとんど意味のないことだったのです。

 

その日のことを、まるで昨日のことのように覚えています。太陽がまぶしく照りつける中を、ジャガーに乗って走行していました。車の中は、皮革と胡桃の内装のにおいが満ちていました。飛行機を買いにいくんだ、と思っていました。そうする代わりに、高速道路に入り、160キロまでスピードを上げ、レンガの壁に向かって突っ込もう・・・としたのですが怖くなって途中で止めてしまいました。もう一度チャレンジするためには、高速道路に戻る方法を考えなければなりません。けれども今度こそを勇気を奮い立たせて壁に突っ込もうと思っていました。

 

そこでどういう理由か、ジーナという近所に住んでいるある女性のことが思い浮かびました。彼女は薬物中毒者で、ここで言う必要もない他の問題も抱えた人だということを私はずっと聞かされていました。けれども、私の知っている彼女は、愛に溢れ、柔和で気遣いに富んだ人でした。他人が言うことと、私が見たことは一致しませんでした。そこで私は彼女を訪ね、なぜ彼女が何事にも悩まされる風ではなく、いつも幸せそうにしていられるのか聞いてみようと思いました。

 

彼女のドアのベルをならし、彼女は私を中に入れてくれました。私は彼女に、どうして彼女が人生について、そうも幸せで満足していられるのかを説明してくれるように願いました。そしてこう私は言いました。

「あなたの持っているものが、僕には必要なんだ。」

彼女は、説明してあげましょう、と言って寝室のほうへ向かいました。私はこう思いました。

「いや、セックスじゃない。セックスが答えのはずはないんだ!」

彼女が寝室から何を持ってきたかを知ると、驚かれると思います。それは、黒表紙の大きな聖書でした。

「うううう、それじゃもっと悪いじゃないか!」

 

聖書を読むと眠くなることや、それが理屈に合っているとは自分には思えないことなどを彼女に説明しました。彼女の答えは単純に

「じゃぁ、それについて祈りましょう。」

でした。その後で、私が今までにも“キリスト教”を試したことがあり、効果はなかったことを話しました。再び彼女はこう言いました。

「じゃぁ、それについて祈りましょう。」

 

「僕の人生は、荒れ果てているんだ。」

私は彼女にそう言いました。

「僕がさっき、何をやろうとしていたか話させてよ。」

 

私の話を聞き終わった後でも、彼女の反応は単純明快なものでした。

「じゃぁ、それについては絶対に祈らないと。」

私が自分の問題すべてを、自分のために死んでくださった方の足元に投げ出す気があるかどうか、彼女は私に尋ねました。それがどういう意味を持っているのか、私には正確には理解できませんでしたが、彼女の“それについて祈りましょう”という答えが、私の気持ちをやわらげてくれました。実際のところ、彼女の人生はとても素晴らしいものに見えました。彼女が抱えていた問題にも関わらず、彼女には喜びがありました。そしてそれこそが、私が絶対必要としていたものだったのです。彼女は、私を“罪人の祈り”へと導いてくれました。そして、私の人生におけるほかの問題全てについても祈ってくれました。

「アーメン」

と私は言いました。そして、目を開けて私はこう思いました。

「ふーむ。なぜか分からないけど、気分がいいぞ。」

 

車に向かうとき、草はより青々として見え、自分の周りの景色と比べればジャガーも色あせて見えるほどでした。

「神様、これはあなたがなさっているのですか?」

私はこう考えました。ちゃんと地に足をつけて歩いているか、足元を見て確認しなければいけないほどでした。地面から1メートルほど浮いているかのように感じられたからです。イエス様が、私の背中にあった巨大な悲しみのかたまりを取り去ってくれたので、歩みが軽く感じられたのです。

 

すぐに、神様が私の道を導いてくださるように祈りました。

「今何をすればよいのでしょう?」

私は神様に訪ねました。神様は、私がどうやったら自分の人生を清め、妻や子供たちと再び一緒になれるかを示してくださいました。また、私が自分の“おもちゃ”を捨て去り、神様についていかなければならないことも示してくださいました。その週の日曜日に、ジーナが私をカルバリーチャペル・ホノルルへと招待してくれました。

 

ビル牧師が招きを行ったとき、私が最初にそれに飛びつきました。走っていく時に周りの人につまづくほどの勢いでした。自由に向けて私は走っていたのです。それが10年前の出来事です。神様に命じられるままに、“悪いこと”を全部やめました。そして私は新しくされたのです。全てのことにおいて神様が助けとなってくださいました。神様に裏切られたようなことは一度もありません。

 

そのあとすぐに、私はイスラエルに旅行に出かけました。その期間を通して、私の結婚も新しくされ、私と妻は子供をもう一人持つことを決めました。バラがあちこちに茂った、とても美しい小さな町を通りかかった時、私はガイドの人にこう訪ねました。

「ここの地名は何ですか?」

彼はこう答えました。

「お若いの、知らないのかい?ここはシャロンと言うんだよ。“シャロンのバラ”のシャロンじゃよ。あんたの神様の名前じゃろ[66]?」

それで、私と妻は、もし娘が生まれたらシャロンという名前をつけようと決めたのでした。

 

今日シャロンは9歳です。彼女は私たちにとって本当に祝福で、とても可愛いです。神様は、私たちの道を修正されました。私は自分の“おもちゃ”を全て取り除いたのですが、不思議なことに、一度私がこの世の物質的なものには本質的な価値はない、ということを理解したら、神様はこれらのおもちゃを返してくれたのです。それらを取り扱うための知恵も与えてくださいました。この世には良いものもあります。それらに“所持される”ことがない限り、皆さんもそれらを“所持する”ことができるのです。人生でもてる最高のものは、あなたをつくられた神様との個人的な関係です。神様はあなたのためにしなれたのです。わかりますか?わからなければ・・・・

 

「それについて祈りましょう!」

 

 

最後に

 

この本の最初で、私はあなたと共に戦い、あなたが結婚における敵との戦い方を学ぶのをたすけると書いた。人間関係を変えていくことの難しさは私も理解している。自分の状況というのは絶望的だと感じておられるかもしれない。そしてこう言われるかもしれない。

「私の伴侶は、結婚をまともなものにすることには、興味を持っていないんです。」

とか、

「私の伴侶は、現状維持で満足しきっています。私の内面は死にかけているのに。」

とか。

 

随分昔に、私は人により頼むことはできないということを学んだ。

信念をもつことができるのは自分自身と、自分の置かれている現状だけなのだ。自分の結婚を救うのに役立った信念を、他のカップルに当てはめてみようとしたこともあるが、私が彼らのためにどれほど励ましに富んで、前向きで、信じる人であったとしても、それらはあまり意味のないことだった。

 

この本の読者のなかには、変化を起こそうとして夫婦一緒にこの本を読まれる方もいるかもしれない。その他の方は、伴侶が興味を示さないので一人でこの本を読まれているのだと思う。私はどちらの立場にも立ったことがあるし、皆様が受けている試練も理解している。より頼むことができるのは、自分だけなのだ、ということを覚えていてほしい。自分の伴侶にしつこくせがんで、彼(彼女)が自分のようになるように命令すべきではない。神様があなたの側におられるなら、だれもあなたに敵対できないのだから(ローマ831節)。

 

自分の伴侶により頼むことはできないが、彼らのために祈ることはできる。神様は、あなたの結婚において働くことを望んでおられる。祈りを通して、神様がなさろうと考えとおられることをなしてくださるようにするべきだ。その過程で、神様はあなたの人生に恵みをもたらし、キリストに似たものとなることを教えてくださるだろう。何が起こったとしても、神様のあなたに対するご計画は素晴らしいものだ。神様の御国と、その義をまず求めなさい。そうすれば、神様はあなたに対するご計画を行ってくださるだろう。心を失ってしまってはいけない。神様が、絶望的な状況でおこなってくださった奇跡の証を読まれたことと思う。神様は準備され、喜んであなたの人生と結婚においてすでに働きを始めておられるのだ。尊きイエスキリストが

「私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことができますように。」(エペソ320節)

 

アーメン。

 

 



[1] To be forewarned is to be forearmed

[2] However, reality is more like the story of the husband who was asked, “When you get up in the morning, do you wake up grumpy?” To which he replied, “No, I just let her sleep!”

[3] William Glasser

[4] He takes the minuscule and makes it monumental.”

[5] Web.Glass

[6] So God took it upon Himself to pay the price for us. The blood of His Son, Jesus.

[7] A little bit of ego?

[8] And second, how he persuades one spouse to hold a grudge for the past sins for which their mate has repented, keeping their mate in a prison of unforgiveness. 

[9] “dead”

[10] The providence of God has brought you to where you are right now.

[11] At the end of Job’s life, he was blessed twice as much as at the beginning.

[12] “Surely I spoke of things I did not understand, things too wonderful for me to know” (NIV)

[13] Expectant heart

[14] So read the Bible and see what He has for you.

[15] Unwitting tools of the enemy”

[16] Getting too much of a good thing”

[17] It is the story of Isaac and Rebekah, a tale of divine guidance and enchantment.

[18] Confirmation

[19] They gave her the choice of going with him or not.

[20] Isaac had gone into the field to mediate.

[21] Romance to Rug-Rats

[22] “Sibling rivalry”

[23] Duplicity

[24] Train Wreck

[25] Satan seeks to confuse the issue.

[26] Non-offensive

[27] Principles

[28] Leaving and Cleaving

[29] In-laws

[30] Your in-laws have their child in the deepest part of their heart.

[31] Empty nest syndrome

[32] Leave

[33] Unique

[34] ハワイで有名な警察ドラマ

[35] 同じく警察ドラマ

[36] 70年代のテレビドラマ

[37] Blindsiding your opponent

[38] ボクシングにおける反則行為

[39] “No Low Blows”

[40] 細い棒を組み合わせて作る模型のおもちゃ

[41] Romance

[42] Free-Flowing

[43] Attitudes in Church History

[44] Chaste

[45] Manipulative

[46] Manipulation

[47] When a man lords it over his wife

[48]The man that tries to use intimidation to get what he wants in the bedroom is in for a rude awakening.

[49] God has made us body, soul, and spirit. Before we were born again of the Spirit of God, we were controlled by our bodily appetites. Now there has been a reversal. The spirit is uppermost and God wants to use that to lead and control our lives.

[50] Hold a Godly view of sexuality

[51] Self-absorbing

[52] Fantasy

[53] Battle-Plan Prayer

[54] Entreaties, Prayers, Petitions, and Thanksgivings

[55] The first type of prayer is entreaties, or supplications.

[56] “Notice, Jesus was heard, yet He went to the Cross. He was heard by the One who was able to deliver Him. And how did God deliver Him? He delivered Him to the Cross because that was the will of God.

[57] It is a means of devotion

[58] Eucharistia

[59] Eucharist、聖餐式の意

[60] Tertullian

[61] Origen

[62] A safe nation makes a secure society

[63] To what end do our prayers go?

[64] “Look within and be depressed; look without and be distressed; look to Jesus and be at rest”

[65] Problem pregnancy center

[66] イエス、シャロンのバラ(Jesus, Rose of Sharon)という歌がある。