聖餐はよく「主の晩餐」とも呼ばれており、クリスチャンがイエスキリストの十字架刑を自分のものとして覚えるためのものです(1コリント10:16,11:20)。主の砕かれた体と、全ての人々のために流された主の血とをクリスチャンが思い起こす時です。
聖餐の始まり
イエスキリストが死ぬ前夜に弟子たちと過越の祭りの食事をした際、聖餐を以後行なっていくこととして定めました。 (マタイ26:26-29、マルコ14:22-25、ルカ22:14-20、1コリント11:23-25)
聖餐の意義と聖餐が象徴するもの
かつて主の晩餐ではパンとぶどう酒が出されました。(今日は私たちの教会を含む多くの教会で、クラッカーとぶどうジュースを用います。) キリストが人類の罪のために死んだとき、キリストの体は私たちの代わりに打たれ、砕かれましたが、パンはそのキリストの体を象徴しています。ぶどう酒はキリストが私たちの罪の代価の支払いとして流した血を象徴しています。(ヨハネ10:17-18、エペソ1:7、ローマ5:8-9)
聖餐をとるための基本事項
主の晩餐にあずかる人は、まずクリスチャンでなければなりません。イエスは弟子たちに対して聖餐を守るよう命じました(マタイ26:26)。ですから、聖餐をとる前に、救いのための信仰をイエスキリストにおいていなければなりません。
聖餐をとるためにはクリスチャンであることに加えて自分の心を調えなければなりません。パウロはクリスチャンに対して、「ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲」まないようにと言いました(1コリント11:27)。
最後に、私たちは自分の人生に告白していない罪がないかチェックしなければなりません。パウロは私たちに「ひとりひとりが自分を吟味」するよう念を押しています(1コリント11:28)。これは自分自身に裁きをもたらさないようにするためです。私たちが罪を言い表して神と正しい関係を築いたら(1ヨハネ1:9)、ふさわしいあり方で主の晩餐をとっても良いことになります。
聖餐の過去の意義
聖餐は過去を振り返って主の十字架の死を思い出す時間です。主の死は単に償いの死だっただけでなく、身代わりとしての死でした。主が私たちの代わりに死ぬことによって私たちが生きるためです。主は私たちの罪をご自身の身に負い、私たちが主の義を受け取ることができるようにしました(2コリント5:21)。
聖餐の現在の意義
聖餐は自身の内面を見て、自分が信仰を告白しているということに照らし合わせて自分の人生を鑑みる時間です。私たちが主との親密な時間を迎えるにあたり、私たちは主が自分を救ってくださったことと、また主の子どもであることの特権について感謝を捧げます。
聖餐の将来の意義
聖餐はイエスキリストの再臨に目を向ける時間です。パウロは、私たちは「主が来られるまで、主の死を告げ知らせる」べきだといいました(1コリント11:26)。主の晩餐は盛大な小羊の婚宴(黙示録19)がやがてやってくるということを示します。
今日私たちは人類の歴史において最も重要な二つの出来事の間に立っています。その二つの出来事とは、イエスキリストの1回目と2回目の到来です。私たちがクリスチャンとして主の晩餐を守り行なうとき、私たちは子の双方に結び付けられるのです。