なぜ居心地の良い自宅でインターネットに接続して、よい説教や音楽を楽しみながら神を礼拝したらいけないのだろう?公園とか山とか、どこかそういった場所で神と会ってもいいのではないか?
私には本当に教会が必要だろうか? なぜ?
聖書は私たちに対し、「愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、…」(ベブル 10:24-25)と教えています。
教会は家族の再会の場なので私には教会が必要です。イエスは「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マルコ 3:33,35参照)と言いました。私たちは一つの家族です。良いときには共に喜び、大変な状況にある時にはお互いに励まし合います。教会とは建物ではありません。その中にいる人々です。私たちは励ましあい、支えあうためにお互いを必要としています。もしかしたら、お金があって、健康に恵まれ、忙しい毎日を送っていたら、他のクリスチャンたちと交わる必要があると感じないかもしれません。しかし、人生の嵐が来たとき-これは必ず来るでしょう-私たちは突如、周りに誰もいないことに気づくでしょう。私たちが教会で浅い関係しか築かずにいると、いざ他のクリスチャンたちの支えを必要とするときにその支えはないでしょう。
教会は教室なので私には教会が必要です。私は一生イエスキリストにおいて強く成長するためのクラスに入っています。そして毎週、前の週の上に築き上げます。聖書についてこのように言った人がいます。「賢くあるために聖書を読み、安全であるために聖書を信じ、正しくあるために聖書を実践しなさい。」 エペソ4:11-13で使途パウロは私たちに「キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たち(つまり私たち)を整えるため…」と言っています。自分自身で聖書を読み、聖書を学ぶ時間は大切です。それと併せて神は教会の中に教えの賜物を持つ人を置き、私たちを整えるようにしました。主についてもっと学ぶ様々な機会を有効に活用しなさい。
教会は身を避ける場所なので私には教会が必要です。教会はこのせかせかした世の中から逃れてくるところです。ちょうど小さな研修会のようなものです。神を賛美しながらこの世の問題を心から追い出し、自分の心を上にあるものに集中させます。「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」(詩篇34:8)
教会は看板なので私には教会が必要です。人々は私が毎週教会の礼拝に出るのを見て私にとって何が大切なのかを知ります。私が一貫して教会に行くことが、私の家族や友人、近所の人に対して強いメッセージとなります。第2コリント3:2-3で使途パウロはコリントにある教会の人にこう言いました。「私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。…墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものである…」と。
教会は勝利を祝う場なので私には教会が必要です。イエスは空(から)の墓から立ち去りました。私は他の信者と共に主がよみがえったことを祝い、また主が死とサタンに対し勝利を納めたことを喜ぶことができます。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)
教会は天にいる父と時間を過ごす場なので私には教会が必要です。ダビデ王は詩篇に次のように書きました。「主よ。私は、あなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します。」(詩篇26:8) 私は神の子どもです。私の父として、神は冷淡な遠い存在ではありません。父は私と時間を過ごすことを喜びとします。神はご自身が私の人生に対して抱いている計画を私に明らかにしたいと思っています。そして私はその詳細を知り、神と協力していくことを望みます。「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ33:3)
しかし、神は私の父であるだけでなく、私達の神です。そしてキリストは私の救い主であるだけでなく、私達の救い主です。イエスはマタイ18:20でこう言いました。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」 私たちがともに集まり主と時間を過ごすとき、主は私たちとともにいると私たちにしっかり伝えています。
では、ここまででなぜ私たちには教会が必要か見てきましたが、どのように私たちは家族の根を地域の交わりに根付かせるのでしょうか。
1) この教会、と決めなさい
まず、どこか一つの教会に行く、と決めなさい。聖餐に与り、新しく生まれた信者として洗礼を受けなさい。教会を構成する人々を知るために時間を割きなさい。例えば、家庭集会に参加する、持ち寄りパーティーに行く、祈り会に出る、など。
使徒の働きでルカは一世紀の教会は「使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた」(使徒2:42)と言っています。他の人を知り、他の人に自分を知ってもらうための時間を作りなさい。
2) お互いのことを気にかけなさい
次に、キリストにおける兄弟姉妹のことを気にかけなさい。神の家族の最も小さなものに対して私たちがすることは、実は主に対してしているのです(マタイ25:40を読んでください)。誰かが助けを求めてくるまで待つ必要はありません。病気の人や年配の人の家を率先して訪れなさい。誰かが経済的に苦しい状況にあると知っていたら食料品を買って届けてあげなさい。また、引越を手伝ったり、車を修理してあげたり、誰かと交替で相手の子を預かって面倒を見たりしなさい。教会のために、また教会で会った人たちのために定期的に祈りなさい。
神が自分に与えてくれた賜物や持ち物で他の人を祝福する方法を探しなさい。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(第1ペテロ4:10)
3) 奉仕する方法を探しなさい
三番目に、自分が属している教会の中で奉仕する方法を探しなさい。第1コリント12:7に「みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。」とあります。神が私たち皆に与えた賜物や能力は私たちの益とするためだけでなく、キリストの体全体(教会)の益となるよう用いられるべきものです。子どものミニストリーや、教会の準備(セットアップ)、祈りの輪、または他に何か神が自分に下さった分野があれば、そういったことに加わりなさい。教会が自分の必要を満たして欲しい、と考える心構えに用心しなさい。私達クリスチャンを特徴づける態度は愛であるべきです。それは他の人に与える愛です。私達の主はこう言いました。「もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」(ヨハネ13:35) 受けとる存在ではなく、与える存在でありなさい。そうすれば主から豊かな祝福を受けるでしょう。
4) 捧げ物を通して主に応じなさい
四番目に、捧げもので主に応じなさい。 私達の時間や才能、持ち物を主にお返しする形で捧げるのはまず主が私たちを豊かに祝福してくれたことに対する自然な受け答えです。第2コリントの8章で使徒パウロはマケドニアにある教会が寛容であることについて書きました。 金銭の捧げ物よりも大切なこと、つまり彼らの寛容さの基になっていたのは、彼らが「まず自分自身を主にささげ」たことでした(5節)。
捧げ物を通して主に応じなさい… 捧げるなければならない、または特定の額を捧げなければならない、と圧力を感じてはいけません。「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」(第2コリント9:7-8) 主が自分に何を望んでいるのか、主の口から言ってもらいなさい。自分で喜んで与えることができるものだけを捧げなさい。神はあなたのお金を欲しがっていません。神はあなたの心が欲しいのです。
5) 宣教師たちを励ましなさい
最後に、自分の教会の宣教師たちのために祈り、また、彼らを励ましなさい。私たち誰もが外国の宣教の地へ出かける機会があるわけではありません。しかし、私たちは皆祈りと宣教師たちと連絡をとることを通して宣教の働きにたずさわることができます。それぞれの役割が重要であり、それぞれが主から祝福を受けます。
イスラエルの民とアマレク人の戦いの後にダビデ王が言った言葉を考えてみなさい。200人の兵士は疲れ果てていて戦い続けることができなかったので、その場に残って持ち物を見張り、体を休めました。そして軍隊が戻ってきたとき、その中には戦利品をこの200人の人たちには分け与えたくないと思った人もいました。しかしダビデ王はこのように言いました。「戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」(第1サムエル30:24) この人たちもそれ以前には戦っていたのであり、まだ戦う気持ちはありました。しかし疲労のゆえに戦うことができなかっただけなのです。あなた自身は中国やロシア、インドなどに宣教のために出かけていくことができないかもしれません。それでも神はあなたが宣教師たちのために祈ったり、彼らに手紙を書いたりするのをみて、あなたの心を知ります。そしてあなたもその宣教の働きの祝福を宣教師たちとともに受けるでしょう。宣教師たちが帰ってきた折にはその人たちを夕食に招いたり、個人的に会って宣教の働きの話をより良く聞いたりするのもよいでしょう。
ここに挙げた5つの基本に従うのは必ずしも容易ではないかもしれません。今日の生活は複雑で、私達の時間を争うように要求する物事が多いです。しかし、私たちが自分の教会に心を定めるなら長期的には私たちが勝利をおさめるのだと聖書で明確に言っています。私たちが根を深くはるにつれ、私たちは「水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。」(詩篇1:3)ようになります。