聖書はただ唯一の神が存在すると明確に教えています(申命記6:4、イザヤ43:11; 44:6、マルコ12:29、1コリント8:4、エペソ4:6、テモテ2:5)。同時に聖書は神の本質の中の複数性をはっきりと示しています。これは神が3つの永遠で互いに等しい「人」で構成されており、父、御子、聖霊それぞれが本質的には同じですが、在り方において異なるということです。
三位一体という言葉は聖書には出てきませんが、三位一体という教義は事実に基づいた結論であり、聖書に書かれている真理を比較したり結び付けたりして到達したものです。「この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」(1コリント2:13)
聖書の大きな謎のひとつ
三位一体は聖書の大きな謎のひとつであり、有限の知力では計り知れません。しかし、もし神のことをわかるほどに神が小さいのであれば、神は礼拝するほど大きな存在ではないでしょう。聖書では、神の道は、私たちの道よりも高く、神の思いは、私たちの思いよりも高いといっています(イザヤ55:8-9)。三位一体の教えを私たちが完全に理解することはないでしょうが、これが聖書にはっきり書かれている教えであるということに疑いはありません。
父は神である
聖書では神は次のような方であると教えています。全てを知っている(ヨブ37:16; ローマ11:33)、全能である(創世記1:1-3; ヨブ42:2)、あらゆる所に存在する(詩篇139:7-12)、永遠である(出エジプト3:4; 黙示録1:8)、変わることがない(マラキ3:6; ヤコブ1:17)、聖である(イザヤ57:15; 1ペテロ1:15-16)、正しい(詩篇116:5)、あわれみ深く恵みに豊かである(詩篇103:8)、罪を赦すことができる(出エジプト34:6-7; マルコ2:7)。聖書は神のみがこのような性質を持つものとしています。
御子、イエスキリストは神である
聖書は 神の御子であるイエスキリストも神に特有の性質を備えていると言っています(マタイ1:21-23; 28:18; ルカ5:20-24; ヨハネ1:1, 14; 8:58; 16:30, 17:5; ヘブル13:8)。イエスキリストは礼拝され(マタイ14:31-33; 28:8; ヘブル1:6)、神と呼ばれ(イザヤ9:6、マタイ1:21-23、ヨハネ1:1,14; 20:28)、罪を赦すことができます(ルカ5:20-24; ヨハネ10:30-33)。このような性質は神のみに属すものです。
聖霊は神である
神が行なうことや神の性質は聖霊にも見られます(詩篇139:7-10; ルカ1:35; 11:13; ヨハネ14:26; ヘブル9:14)。聖霊は人格のある存在であり(ヨハネ16:13-15; ローマ8:27; 1コリント2:10-13; 12:11)、創造主であり(創世記1:2; ヨブ33:4)、神と呼ばれています(使徒5:1-11)。
正当な、聖書的結論
ここで述べた理由により、また他にも理由はありますが、正当で且つ聖書的な結論として、父なる神、御子なる神(イエスキリスト)、そして聖霊なる神は聖なる三位一体であり、聖書で述べている唯一の神であるということを信じるほかないということに至ります。三位一体というあり方について疑問はありません。唯一の問題はそれを信じる心の問題です。私たちは、神はこうあるべきだという考えによってではなく、単に聖書が明らかにする神を知りたいと望むべきです。