私はただ、私たちカルバリーチャペル所沢が水のバプテスマについて何を信じているか、説明したいと思いました。残念なことに、他の多くのことでも言えるのですが、聖書の中にとても単純に述べられ、説明されていることが、人や言い伝えによって複雑にされているのです。
イエス・キリストの信者として、バプテスマは聖書の中で私たちに与えられている特権の一つで、自分の救い主とさらに結びつきを持つことです。これは喜ばしい出来事であり、この出来事を振り返り、励ましを受けることができます。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、(マタイの福音書28:19)
実はこれが、イエス様ご自身によって与えられた、言わばちょうど良いバプテスマの定式です。
第一の要件を見ることができます。「弟子とする」ことです。バプテスマは弟子のためのものであり、イエスを信じ、イエスに従う者のためのものです。口で信じると言うこととは別です。なにしろ、悪霊でさえ神を「信じて」いるのですから(ヤコブ2:19)。私たちは本当に信じているのでしょうか。キリストが、神が肉を取られた方であり、罪なき人生を送られ、ただの罪が赦されるために恐ろしい死に方をされたことを信じていますか。本当に自分の罪を悔い改めたでしょうか(罪からUターンをし、神の方角へ向かっているでしょうか。)そして、キリストを受け入れるとき、この方に進んで従い、自分の人生をこの方と関連づけて考えているでしょうか。これらのことが、弟子であることの意味になります。もちろん罪のない生活を送ることはできないことは分かっています。だれも完璧ではありません、けれども、悔い改めて、自分の人生に対する神のご計画を求める選択はされたでしょうか?
幼児洗礼だとか、もしかしたら死者のためのバプテスマについても聞かれたことがあると思います。残念ながらこれらは聖書的な根拠がありません。自分の意志でバプテスマを受けないなら、自分がこの決断をしないなら、意志を持って悔い改めをし弟子になることを決めていないなら、そのバプテスマは無効です。無意味です。
父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け
人がバプテスマを受けるとき、父、子、聖霊の御名によって受けます(マタイ28:19)。三位一体の神です。同等で、永遠に共存し、同時に存在する神です。神とそのご性質を知ることは大切です。これを完全に理解することはできませんが、信仰によって受け入れます。三位一体と、その本質や神のパーソナリティー(人格、位格)を認めることは、非常に大切です。父なる神は、ご自分の子を、多くの人のための贖いの代価としてお与えになりました。子なる神は、私たちが永遠のいのちを持つためにご自分のいのちをささげられました。聖霊なる神は、私たちを導き、罪と不義からきよめてくださいます。この三位一体です。
救われるために、バプテスマを受ける必要はありますか?
絶対にそんなことはありません。初代教会にて、「行ないによる義」と呼ばれるものに関連して、このような問題が多く出てきました。もっと正しくなるためには何をしなければいけないのだろうか?キリストだけでは、どうも十分でない。だからイエス様を信じて他にも何かをする。特定の日に礼拝する。一定の儀式を行なう。割礼を受ける。などなど、枚挙にいとまがありません。これは明らかに偽の教えです。救われるためには、イエス様だけで十分です。
あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2:8-9)
救いは、無償の贈り物です。働いて得ることはできません。救いを得る価値は全然ないのです。単に無償の贈り物なのです。
残念ながら、行ないに基づいた義が、今日の教会の中にも入ってきました。
バプテスマによって新生すると教える人たちがいます。本当に救われるためには、バプテスマを受けなければいけないという意味です。彼らは特にマルコ16章16節のような聖句(信じてバプテスマを受ける者は、救われます。)を持ち出し、彼らの信条を納得させようとします。ここでの問題は、一部の聖書箇所を取り上げて他の箇所を無視し、神の全体のご計画を否定していることです。彼らが教えていることが本当なら、イエスを信じることだけでは不十分であり、救いは無償の賜物ではなく、バプテスマにとって獲得しなければいけないものになってしまいます。マルコ16章16節でイエス様は、救いへのステップを教えているのではなく、信者すべての発言をされているのです。キリストを信じることによって、私たちは救われます。バプテスマを受けることで、自分をキリストを結びつけます。
バプテスマは、世に対し自分が主であり救い主であられるイエス・キリストに忠義を尽くすことを言い表すことのほかに、キリストに自分を結びつけるようにさせます。
もしバプテスマが救いに本当に必要なら、使徒パウロが許しがたい過失を犯していることを、考えてください。コリント第一1章17節でパウロは、「キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。」と言いました。イエス様は、マリヤとマルタに語られたときバプテスマのことを言及せずに福音の半分しか宣べ伝えられなかったことで、ご自分を罪に定めておられるのではないでしょうか。わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。(ヨハネ11:25-26)十字架にかけられた盗人のことを考えてください。イエス様を信じた後にバプテスマを受ける時間はありませんでしたが、イエス様が死なれる間際に、まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。( ルカ23:43)と言われました。
では、バプテスマを受けたら何が起こるんですか?
マタイ28章に戻りましょう。バプテスマという言葉のギリシヤ語はバプティゾです。文字通りには「浸す、つける」という意味です。バプテスマを受けたとき、自分の体は水の中で浸され、それがイエス様の死、埋葬、復活との自分の関係を表しています。
それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。(ローマ6:3-4)
バプテスマを受けるのは、死、埋葬、復活を表す象徴的な儀式を体験することです。
死:神に自分のいのちをささげることを選んだときのことです。
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 (ガラテヤ2:20)
埋葬:自分の体が水面下に置かれるときのことです。
そして復活:キリストにある新しいいのちにあずかることです。
水のバプテスマは、神に自分を従わせたとき、自分の内で怒ることを外に表現することです。受洗によって、自分の生活におけるキリストの御業を物理的に示しています。キリストの肉体が葬られたとき、バプテスマを通して私たちも古い性質が葬られます。キリストが、不死の、罪と死に打ち勝った、栄光の復活の体によって死からよみがえられたとき、古い自分が葬られた後に水から出てきて、新しいいのちと、御霊のいのちにあって出てきます。
1ペテロ3章21節にて、バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく(言い換えると、バプテスマの行いは、罪人をきれいにすることはない、ということです)、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの死・埋葬・復活によるものと、教えられています。だから、バプテスマは内なる働きの外側の表現であるといっているのです。イエス・キリストへの信仰によってすでに救われているのですから、今は、従順によってバプテスマを受け、そうすることによって、永遠のいのちに至る救いを可能にするキリストの死・埋葬・よみがえりに自分を結び付けてください。
さらに私たちがお手伝いできることがあれば、あるいはもっと質問がございましたら、気兼ねなくお電話ください。主がバプテスマ式においてあなたを祝福し、特別なイベントとなりますように。
トラヴィス牧師